
ある晩の一幕
ご機嫌よう、プリムロゼ・エゼルアートよ。今日は語り手としてお話させていただく事になったから、暫しお付き合いくださると嬉しいわ。
この話について聞いた時、どうしてその場に居なかったのかしら? 面白そうだったのに……と現場を見られなくて残念だったけれど、語り手を任されたのだから良しとしておきましょう。
私が全て知っているかのような口振りになってしまう箇所も有るし、雑談も多々入り交じるだろうけれど、その辺りは演出として大目に見てちょうだいね? 世間話を聞きながらお酒を嗜む、くらいの軽い気持ちで居てくださると丁度良いかもしれないわ。
──さぁ、そろそろ始めましょうか。
これはある日、ある晩、ある街での一幕。旅の学者と、私と同じ踊子と、盗賊の三人が繰り広げた……ちょっとしたお人好しのお話。
* * *
その晩、学者サイラス・オルブライトは、いつものように情報収集を目的として酒場へ赴いていた。すっかり出来上がっている人、ちびちびと一杯の味を堪能している人、男女の逢瀬を楽しんでいる人達と様々な客で店内は賑わっていて、彼はその一角で街の役人である男と一期一会の巡りを祝して飲み交わしていたの。
気分良く過ごしていた役人は、学者であり教師でもあったサイラスから語られる物珍しい話題に心が躍り、聞こうとしていた事も聞いていない事も自分からペラペラと饒舌に話してくれたそうよ。
おかげで知りたかった情報は十分に得られたし、このグラスを飲み終えたらお礼を伝えて宿に戻るとしようか、そんな事を考えながらまた一口飲んでテーブルに置いた直後……彼女はやって来た。
「せ~んせ~!!!」
「っ!?」
「飲んでる~? このお酒おいしいよぉ!」
彼女、踊子クローチェ・ベィルも、彼と同じく酒場を訪れていた。サイラスが居るテーブルとは反対方向、カウンターの端の方で付き添いの……いえ、彼女に強制連行された盗賊テリオンと席に着いていた筈だと、二人よりも後に入店した彼は店内の客位置を把握していた。
軽く手を上げ挨拶を交わしはしたが各々の時間を過ごそうと相席せずにいたのだけれど、今になって急にクローチェがサイラスの背後から勢いよく飛び付いてきたものだから、突然の衝撃に彼も驚いたみたい。
美しい色のカクテルが注がれたグラスを片手に、一目で酔いの回りが分かるくらい頬を紅潮させ満面の笑みを浮かべている彼女は、そのまま当然の流れとでもいうようにサイラスの膝の上に座り全身でべったりし始める。ふふ、大胆ね。
「すんごい甘くてスッキリしててぇ、とおってもキレイでね~!」
「……クローチェ君、かなり酔っているね?」
「酔ってる! 激酔い! 気分さいっこうでぇ、た~のし~いですね~!」
予想だにしていなかった事態に困惑しつつも、サイラスは抱き付かれているまま彼女がバランスを崩して落ちたりしないよう、背中に手を添えて支えてあげる。見るからに酔っ払い全開の人に問うても無意味ではあるけれど、念のため意識の確認をするべく彼女に聞いた。
「いつもはここまで酷くなかったと思うのだが……どのくらい飲んだ? 流石に飲み過ぎだと思うよ」
「んん~、わかんない。一杯? いっぱい!」
「数えられないくらい飲んだようだ……あぁ、すまないね主人、私の旅の仲間だ」
「やっほ~う!」
突然の訪問者が目の前の男に絡みまくっているのを見てぽかんと口を開けたままでいた役人に対し紹介すると、クローチェも元気良く手を上げて挨拶した。一見、眉目秀麗で学問の事しか頭に無く色事などまるで興味無さそうな男が、仲間らしくとも毛色の異なる踊子の女を膝に乗せたまま普通に会話を続けていたら、そりゃあ戸惑うわよね……まぁその通り色事には興味が無い人なのだけれど。
異様な組み合わせに気圧されていた役人だったが、途端「聞くのも野暮ってもんだな!」と大笑いしてサイラスにお礼を言い、自分のジョッキを持ってそのテーブルから去って行った。何か大きな誤解をされていそうだけれど、きっと何の事を指していたのか気付けはしないのでしょうね、先生は……。
「此方こそ有難う、貴重な話が聞けたよ。……さて、クローチェ君。カウンター席でテリオン君と飲んでいたのではなかったかな?」
「ん?」
「……あれ、居ない」
彼女を乗せたまま肩越しにカウンターを見やるが、其処にはもうテリオンの姿は無く。代わりに別の客が腰掛け、店主にエールの注文をしている様子だけが伺えた。
「帰った!」
「そうだったのか」
ならば仕方無いのかもしれないな、と納得したサイラスだが、ふと些細な違和感を覚える。
(……この状態の彼女を置いて、か?)
素っ気ない態度も常のようなテリオンならば、そういう事も確かに無くはないのでしょう。実際、アーフェンから誘われて相席してあげたが飲み終えたら先に帰った、なんて事も有ったようだし、可能性は決してゼロではない。
けれどサイラスは、……いえ私達は、この場に、酒場にクローチェを一人置いて帰るような真似は誰もしないだろうというのを、もう分かっているのよね。
ならば何故? 気に掛かる事柄が有れば理由を探る性質の学者サイラスは、暫し考え込む。
(急用でも出来たのだろうか? 彼だけで動かなければならない何か、それこそ彼にとっての『仕事』なのであれば、クローチェ君を私の元へ向かわせて一人退店したというのも頷ける。だが、周りとの差は有れど仲間思いの節も見られる彼が今日、そうする必要が有った『仕事』とは……?)
「……せんせ?」
急ぎ解決しなければならないような事象がこの街に起きていただろうか、役人から聞いた話の中にそれらと関係する情報が無かっただろうか? と、先程までのやり取りを思い返そうとする。
「サイラスせ~んせ~え!!」
しかし、何かを考え込み始めたサイラスに気付いたのか、クローチェがムスッとしながら耳元で呼び掛けた事で、その思考は中断される事になった。
「聞いてる~?」
「──あぁ、うん。聞いているよ」
「うっそだぁ。じゃあ、わたし何言ってた~?」
「そのお酒が美味しい、だったかな」
「そう! おいしい! もっかい飲んじゃお!」
「それは駄目だよ、飲み過ぎだ。……ほら、グラスを置いて。そんな所に座っているのも危ないから」
抱き付きながら飲み続けていたグラスをクローチェからそっと奪い、彼女の手が届かないようテーブルの端に置いた。「えぇ~」と不満を口にしながら足を揺らす彼女に、動くのも危ないから、ともう片方の手でやんわりと足を制止させる。
「危なくないよ~? せんせぇが支えてくれる! から!」
「支えはするさ、落ちて頭でも打ったら大変だからね。だが支えきれず落としてしまうかもしれないし、出来れば降りてもらえると助かるのだけど」
「やだ!」
「嫌か……ふむ、困ったな。こういう時はどうしたら聞き入れてもらえるだろうか」
「飲もう!」
「もう十分に飲んだよ」
「赤くないのに~?」
「私はあまり酔わない方なんだ。酔いが有っても顔には出ないかな」
確かに、私達とも何度かお酒を飲み交わした事は有っても酔った姿を見た事は一度も無かったから、彼の言う通りお強いのでしょうね。まだ粘るクローチェに対して落ち着いて対応する様は、やはり大人といったところか、小さい子供のように駄々をこねられてもあまり動じていないようだった。他にもテーブルに置いてあった、冷水入りのグラスを彼女に差し出す。
「飲みたいのならこっちだ」
「……お水じゃん」
「さ、どうぞ。それから夜風に当たりに行こう」
「えぇ~~~もっと飲もうよ~!」
「ただの水では不満かい? 確かキミは柑橘系が好きだったね、店主にレモンの果実水を頼もうか。それなら栄養素がアルコールの分解を促してくれるし、キミの好みにも合うから……」
そう言い、店主に向けて注文を伝えるべく手を上げようとした、時だった。
「…………せんせぇ、やだ?」
それをそっと手で制止した彼女の口から、これまでの様子とはまるで違う声量で、ぽつりと発せられたのは。
「わたしに、こうされるの、やだ?」
二人の視線が正面から合う。
座られている事で少し見上げる形になっていた彼女の顔には、喜も怒も楽も無く……哀しさを帯びた不安げな感情が、浮かんでいた。
「────、」
一瞬、サイラスが息を飲む。
しまった、やり過ぎてしまったか、そんな顔をさせてしまうつもりは無かったのだが……そう自分に生じた弁明の言葉も脳裏を過ぎったけれど。今伝えるべき言葉は一つだけだと、返答する。
「嫌ではないよ」
「……ふぅん……」
「本当に、嫌だと思う事は無いよ、クローチェ君」
真摯に、真っ直ぐに見つめて、自分が抱く嘘偽り無い気持ちを彼女に伝える。
店内の賑やかな声音だけが響いていた数秒の後、ふ、とサイラスは表情を和らげて見せた。
「……ただ、対応に困りはするかな。女性を膝の上に乗せるなどした事が無いから。それに正直、どう触れて良いものか躊躇ってしまう」
「……腰どうぞ」
「それは、ちょっと……」
彼の返答を聞き、ひらりと上着の裾を持ち上げ腰回りの肌を晒して見せるが、理解してすぐに触れたりするような軽薄な男ではないサイラスが応える事は無く。断られてしょんぼりという擬音が合う落ち込み顔で裾を離すクローチェに苦笑しながらも、彼は言葉を続ける。
「勿論、それも嫌だからという訳ではないからね。女性の肌に軽々しく触れるものではないからであって、拒絶の意などではない事はどうか理解してほしい。キミと接していて嫌だと思った事は、一度も無いよ」
「…………」
「……もっとも、キミは今かなり酔っているようだから、きちんと伝わるか分からなくもあるが」
彼が優しく伝える言葉をじっと聞いていたクローチェは、ふるふると首を横に振って見せ、答えた。
「……だいじょぶ、わかるよ」
「……そうか。なら、良かった」
それから一度じっ、とサイラスの顔を見つめてから、クローチェは漸く彼から降りて地に足を付けて立ち、先程差し出された冷水をぐいっと飲み干した。ふう、と息を吐く彼女を見て「よし、良い子だ」と穏やかな笑みを浮かべ、彼も飲み掛けだった自分のとクローチェから離したグラスを飲み干してから立ち上がる。
すると、再度じっ、と見つめられていた事に気付き「なんだい?」と問うと、返って来たのは。
「つまり、サイラス先生は照れ屋さんって事ですな!」
指先をびしっ、と彼に向けて斜め上の結論を述べたものだから、流石のサイラス先生も少々返しに詰まってしまったみたいで。
「………………そういう事にしておいてくれて良いよ」
「うむ!」
そうではないが訂正するのも野暮かな、と苦笑しながら「やれやれ……」と軽く一息吐いた姿には、すっかり年下の女の子に振り回されちゃって、と微笑ましく思ったわ。でも同時に、先程までの笑顔と明るさが戻ったクローチェに安堵してもいたそう。
そうして「帰る?」と聞いてきた彼女に「そうだね」と返して、次の行動に移ろうとした……その矢先に。
もう一つ、サイラスにとっては不可解な出来事が起きるの。
「部屋まで送ろう。店主、お勘定を……」
「もう払ったよ」
「──え?」
精算して退店しようと動き出すよりも早く、そう告げたクローチェがサイラスの手を取り出口まで駆け出した。
急に手を引かれたサイラスはそのまま連行されるしかなかったのだけれど、頭には「どういう事だ?」の疑問が浮かぶばかり。
「はぁい帰ろ~! 宿に帰ってぐっすり寝よ~う!」
「ま、待つんだクローチェ君! 走ると危ないし、一体どういう……!?」
彼女が開け放った扉を過ぎる直前に振り返り店主の方を見るが、怒鳴り引き止められるような様子は微塵も感じられない穏やかな表情で。それどころか、サイラスの耳には「またどうぞ」と見送りの言葉が届いていた。
(もう払った、だと? いつ? 私ではないし、彼女にもそんな素振りは見られなかった。咎められなかったという事は、支払いについては何の問題も無いのだろう。だが、これは一体……?)
考えても、答えはすぐには見えてこない。また、手を引くクローチェが酔いも冷めきれていない状態であっちへこっちへと帰路を無視して軽やかなステップを踏みながら進むものだから、解を探るよりも躓いたりしてはいけないと、彼女と自身の足元に注意を向けるしかなくなる。
「クローチェ君、ちゃんと前を見ていないと」
「夜風に当たろうって言ったのサイラス先生じゃ~ん!」
「それはそうだが……」
「んふふ、お散歩しながら帰ろ~うね~!」
「……全く。楽しそうにしているなぁ、キミは……」
字の如く振り回されてはいるが、鼻唄を歌いながら手を引いて動き回るクローチェを見て、機嫌を直してくれたのなら良いかと、サイラスも笑みが浮かんだ。真っ直ぐに向かってはいない為に宿へ辿り着くまで時間を要したものの、火照りを落ち着かせるような涼しい風に当たりながら、二人は月夜の街を行くのだった。
とても楽しそうにしている彼女も、付き合わされていても悪い気はしていない彼も、たまにはこんな風に過ごすのも素敵よね。
── ── ──
漸く宿屋に辿り着いて。ご機嫌なクローチェと共に、サイラスは彼女の今夜の泊まり場である一室の前へとやって来ていた。
「気分は悪くないかい?」
「だいじょぶ、ありがと先生。入る?」
「いや、遠慮しておくよ。今日はオフィーリア君と同室だったね、気分が優れなくなったらすぐ彼女に言うように。丁寧に介抱してくれるだろう」
「はぁい」
引いていた手を離したクローチェが扉を開けると、先に戻り室内の椅子で本を読んでいたオフィーリアが顔を上げて「おかえりなさい、クローチェさん」と言い、サイラスも居た事に気付き両者で軽く会釈をした。
無事に送り届けられたし安心だろう、そう思いサイラスも今夜割り当てられた男性部屋の方へ向かおうとする。
「では、私はこれで。おやすみクローチェ君、オフィーリア君。また明日」
「おやすみ~サイラス先生!」
「おやすみなさい、サイラスさん」
室内からの優しい声と、元気良く手を振りながら応えた彼女らに軽く手を上げて見せて歩き出し、後ろからパタンと扉の閉まる音が聞こえたのを確認してから「……ふう」と軽く一息吐いた。
(明日も元気な姿を見られそうだ)
哀しそうな顔をさせてしまった時は、やらかしてしまったかと思いもしたけれど、事なきを得たようで良かった……そうサイラスは安堵する。
(──しかし、気に掛かる事は、まだ)
クローチェと居た事で中断していた思考の巡らせを再開させながら廊下を歩いていると、階下から誰かが上ってくるのが見えて目を向けた。
現れたのはよく知る人物、旅の仲間の一人でもある、彼で。
「テリオン君」
「…………戻ったか、サイラス」
「あぁ、今しがた」
サイラスが声を掛けると、ちら、と一瞥して返事はするものの、テリオンはすぐやり取りを終えて部屋へ向かおうとした。
「待ってくれ、」
けれど、それを今のサイラスがそのまま行かせる訳が無く。引き止めれば少々の間が有りつつ、「……なんだ」と足を止めて振り返った。
「知っているね?」
「何を?」
「キミが、いやキミ達が、私に明かしていない真実を」
彼が指すキミ達とは、当然テリオンとクローチェの事でしょう。謎が有れば解き明かしたい、その鍵を握っているのであれば是非とも教えてほしい、そんなサイラスと顔を合わせたら言うまで引いてはくれないのを、テリオンも既に嫌という程に知っている。
「…………」
問われるだろうと分かっていたからこそ、さっさと通り過ぎようとしていたのに……と思っていたのかもしれないわね、テリオンは。暫しの沈黙が有った後、口を開く。
「……お守りの文句なら聞かんぞ」
「文句だなんてとんでもない、嫌だと感じた事など無いよ」
「どうだか」
「まぁ、想定外の出来事も有りはしたかな。だが、彼女が気分良く眠れて朝を迎えられるのなら、それらも些細な事さ」
「……そうかい」
お人好しめ、とぼやいた彼に対し、サイラスも特に否定はしない。そこで切り上げず場に留まっている様子を見て、会話を続けてくれるようだと判断し、彼が今抱いている疑問の一つを尋ねる。
「先に店を出ていた筈のキミが、私達よりも後に戻って来た。時間を掛けて街中を歩き回っていた私達よりもだ。何処か寄り道でも?」
「言う必要が?」
「有るか無いかといえば無いのだろう。ただ、あそこまでクローチェ君が酔っていたら、無茶をする仲間を放っておけないキミは先に帰るなどしないのでは、とね」
「……誰かと間違えてないか。俺は連れが泥酔しようが寝落ちようが置いて帰るぞ」
「どうかな。相手によってはそうする事も有り得なくはないのだろうが……今日は、意図的に姿を消したように思える」
「ほう? ……なら、学者先生がそう考えた理由を聞いてやる」
廊下の壁に背を預けて腕を組み、続きを寄越すよう告げた。普段は「話が長い」と要点だけ述べるよう切り捨てる彼だけれど、今回は彼にとっても少しばかり興味が有るのか、サイラスがどう考え問い掛けているのか気になったみたいで。
「ふむ、」
要求されたサイラスはいつものように、顎に手を添えながら考えを巡らせ、一つ一つ謎を繋ぎ合わせ導き出した推察を順に述べていく。
「……まず、踊子は人を喜ばせる為に舞う者も多い。そのイメージから客も踊子に対して接待を求める傾向が見られ、女性であれば尚更、悪意を持つ輩がそれらを強要する事も有る。そういったトラブルに遭ったクローチェ君が一人では酒場に行かなくなったとキミも聞いた筈だし、今日も恐らく護衛も兼ねて誘われていたのだろう?」
……そう、それはまだ彼女が私達と出会う前。一人立ちをして旅を始めたクローチェは、身に付けた技術を披露しながら各地を巡り歩いていた。洗練された踊りだけでなく自作曲も歌いながら舞う彼女は客の心を惹き付け、舞の後に声を掛けてくれた人達から賛辞を貰いながら楽しく飲み交わす事も度々だったそうよ。
それはとても素敵な事、けれどこの世界は善人だけではないから……邪な願望を持つ男が彼女に近付き、睡眠薬をお酒に盛って……所謂、お持ち帰りに遭ったみたいで。幸い、男の隙を突いて逃げ出せたから無事だったようだけれど、やっぱり怖かったのでしょうね。それからはなるべく一人で酒場に行くのは止めて、旅も芸団や商隊に同行させてもらうようになったと彼女は話してくれたわ。
私も下心を持つ男に誘われた事は幾度も有る。でも私と彼女は過ごしていた環境がまるで違うから、そういったトラブルに遭うだなんて思いもしなかったでしょう。……男の躱し方もよく知らない乙女を狙うなんて、その男どうしてやろうかしら、と怒りを覚えたものだけれど。たまには飲みに行きたいという彼女の願いを聞いてあげるのが私達に出来る最良の手だと思って、時々ご一緒させてもらっているの。
目立ちたくないテリオンは賑やかな彼女に構われるのを初めは迷惑そうにしていたけれど、その話を聞いてからは仕方無いからと付き合ってあげる事にしたみたい。連行されてもあまり嫌そうにはしていないのは、慣れも有りつつ、抵抗しても疲れるだけだと諦めたのかしらね。
そういった彼女と私達の事情が有るから、サイラスは今回のテリオンの行動に疑問を抱いたのでしょう。
「問題が生じる危険が少しでも有るのならば、なるべく厄介事は回避したいキミは彼女を一人残して帰る事はしないと思う。置いて行くより連れ帰る方が安全だ。だがそうはせず私の元へ行くよう仕向け、一人で動く必要が有った。何かの『仕事』を成す為に」
「……それで?」
「この街の役人の情報では最近、物盗りが多発しているようでね。金になる品ばかり狙われ、貴族や旅の商人も被害に遭ったそうだ。犯人の確保に動いていても成すのはまだ難しく、苦情の対応にも追われて困っていると零していたよ。……その犯人と、キミが狙うに値する品の情報を得られたから、動く事にした。……こんな所かな」
「……品がどんな物かについては?」
「絞るにはもう少し情報が必要だね。しかし見た所、持ち運びに困るような大きさではないようだ。もし私の推察が当たっているのであれば、キミの鑑定眼に適った品には興味が有る。良ければ教えてくれないかな?」
一通りを述べたサイラスは、テリオンが行なった『仕事』について……つまり、盗んで持ち帰った品に興味が有るらしい。当たっているのであれば、と言いながらも間違いではない確信が有るようで、いつものように穏やかな笑みを浮かべながら好奇心から相手を観察し、羽織の下に何を隠し持っているのか考えているようだった。
ジロジロ見るな、とでも言いたげな視線を向けるが、全く動じないサイラスに小さく溜息を吐き、テリオンは一度目を閉じる。
「持ち主に返すべき、あんたならそう言いそうなものだがな」
「確かに、彼らの元へ戻るべきだとは思うよ。しかし、キミには盗賊としての矜持が有る。盗まれて困っている品を我欲の為に収奪する事は決して無いと、私はよく知っているから」
「……買い被り過ぎだ」
「いいや、断言する。盗賊テリオンは奪うだけの男ではないさ」
「──あんたに俺の何が分かる?」
閉じていた目を開き、鋭い眼光でサイラスを睨み付ける。しかし目の前の学者は、そうされたとしても怯みはしない人だ。寧ろ威嚇もさらりと受け流し、嬉々として自分の土俵に上げてしまう恐ろしさも持っているから。
「おや、ならば挙げていこうか? 仲間達の証言も交えながら一つ一つ事細やかに……」
「要らん。寝る時間が消える」
「それは残念だ」
「…………聞いてやるんじゃなかったな……」
数分前の気紛れを起こした自分に後悔したのか、テリオンはチッ、と舌打ちをした。こいつと話すと調子が狂う……暖簾に腕押しのような疲労感を覚えるだけで奴の認識を覆せないのならば、さっさと折れて話を進めてやる方がまだマシだ、と改めて思う。
「……もういい」
組んでいた腕を解いて横に振って見せ、羽織に片手を入れたテリオンだったが、「見せてやっても良い、が」と前置きを挟む。
「聞き忘れている事が有るんじゃないか?」
「あぁ、そうなんだ。もう一つ不可解な謎が残されている。その口振りだとやはり知っているんだね」
「内容によるな」
「では、答え合わせを続けよう」
残っている謎についての考えを要求されたサイラスは、再び推察を述べる。テリオンは先程よりも少し、ほんの少しだけ、彼自身にしか分からない期待をサイラスの言葉に向けていた。
「店主に酒代を支払おうとしたらもう精算してあったようでね、店を出る際も咎められる事は無かったんだ。しかし役人は別のテーブルで飲み続けていたし、酔いの回ったクローチェ君が支払うのも難しいだろう。何より、彼女が終えてある事を知っていた……」
「……つまり?」
「テリオン君が、私の分まで支払ってから店を出たのではないか?」
──そう述べた、直後。僅かに、テリオンの目が細められた。
サイラスの答えを聞いてフッ、と小さく笑みを浮かべる様子はまるで、当てられてしまったかと悪戯がバレた人のようで、しかし。彼、そんなお優しい気遣い屋さんだったかしらね……?
この時はまだ、サイラスは笑みの意味に気付いていなかった。
「すまないね、ちゃんと返すから安心してくれ」
相手の反応を肯定と受け取った彼は、立て替えてもらった分をすぐに返そうと懐を探る。しかし……探り当てたのは目的の物ではなく、別の違和感で。
「……あれ?」
無い。
其処に有る筈の、持ち歩いていたであろう品が。
それどころか、
「お探しの品はこいつか?」
自分の懐にではなく、目の前の盗賊が手に乗せているではないか。
「……!?」
そう、テリオンが今サイラスに見せている物は、つい先ほど羽織から取り出そうとしていた持ち帰りの品は──サイラスがよく見慣れている彼所有の、財布。
仲間の貴重品を故意に奪う事はしない男だと分かっているから疑う事は無いといっても、どうして彼が持っているのかは不明で。事態に驚きを見せるサイラスに、クックッと喉を鳴らして笑いながらテリオンは答えを返す。
「残念だったな。あんたの推察、合っている所も有りはしたが……ハズレだ」
「なんだって……?」
「そもそも前提が違う。俺が『仕事』の為とはいえ、あんたの分までわざわざ立て替えてやる意味が? 自分のだけ払ってさっさと出て行くさ。そんなお優しい奴だと勘違いするな、気色悪い」
「……気色悪いは言い過ぎでは……」
「間抜けの方が良かったか? どちらでも構わんが」
「聞き捨てならない言葉ではあるが……確かに今の私は、キミの言う通り間抜けなのだろうね」
貴重品の管理はしていた筈なのに無くなっていて彼の手中に有るのだから、そう言われても仕方の無い事だろう……サイラスは自身の内でそう呟く。ぽん、ぽん、とテリオンの手で軽く跳ねるように遊ばれていた財布は、そのまま宙を舞うようにしてサイラスの手元へ返された。
「中身は知らんぞ」
「……いや、大丈夫だ。昼間と変わらずだよ。……まさか、成果が私の財布とはね……これは予想していなかったな」
財布の中身を確認すると変わった所は見られない、一銭も抜き取られる事無く戻って来たようだった。ハズレと評されてしまった推察に何が間違っていたのか気になって仕方無いが、まずは伝えるべき言葉を伝えなければ、と気持ちを正す。
「有難うテリオン君、取り返してくれて」
「ふん。言っておくが、俺は頼まれたから盗んだだけだ。同業がどんな悪さをしていようと俺には関係無い、今日も仕方無くだ。あんたももう少し周りを探るばかりじゃなく自分の事も気に掛けろ、面倒を増やすな」
「はは、耳が痛いね」
「そう思うなら改めろ。……まぁ、あんたが気付かないくらい酔っていると思い込ませていたのなら、あの演技力も大したものだがな……」
「え?」
「……礼なら寝てる奴に言え。あとは自分で考えろ、もう寝る」
説教も含んだ厳しい指摘の後にそう言い放ち、テリオンは話を切り上げて去って行った。数秒もしない内に男性部屋からアーフェンの出迎えの声が聞こえてくるが、またすぐ廊下に静寂が戻り、サイラスだけが一人この場に残される。
「…………ふむ」
手中の財布がいつ懐から無くなっていたのか、件の犯人に盗まれていたのか……自身のこれまでの行動を振り返りつつ、同時にテリオンが残した言葉について考える。
「……頼まれた、前提が違う、思い込ませた演技……か」
今回の件、サイラスは初めから捉え違いをしていた。いいえ、そうだと気付かれないよう振る舞っていたから気付けなかった、というのが正しいわね。
テリオンじゃないなら誰なのか、なんて、思い浮かぶ人物は決まっている──
(……クローチェ君の主導、だったとは……)
ふう、と軽く一息吐いて廊下の壁に背を預け、顎に手を添えてサイラスは思案する。
(私は自分でも気付かぬ内に、こうだと決め付けて可能性を狭めてしまっていたようだ。主導したのはテリオン君だと思い込み、別の道筋について考えていなかった……これでは正しい答えには辿り着けない。もっと広い視野で物事を捉えなければ)
酒場での彼女とのやり取りを思い返すと、ただの酔っ払いが絡んできただけのようにも思えるけれど、もしかしたらそうだったのではなかろうか? と思える点が幾つか有る事にサイラスは気付く。退店直前に精算済みである事を知っていた違和感もそうだが、他にも彼女の行動には意味が隠されていたのではないか、と。
(彼女がやって来て私の膝上に座ってから、彼女の方か正面だけを見て話していた。落ちないようにと私が気に掛けていたのも、自分だけに意識を向けさせる狙いが有ったのだとしたら? ……推測だが、件の犯人が私の財布を盗んだ後も続けて狙いを定め、あの店内に居たのかもしれない。それを偶然にも知ったクローチェ君は犯人を遠ざけようとああ振る舞う事で私の注意を引き、他の客、反対側や後方を見せないようにしていたのでは……。テリオン君に『仕事』を頼んで別れたのも、犯人を外へ連れ出し、取り返してもらう為だろう)
店内に犯人が居たのであれば、クローチェがサイラスの元に居続けていたとしても、何らかの形で接触してきたでしょうね。けれど役人と別れて以降は他の客と話す事は無く、誰かが近寄って来る気配も無かった。その筋から恐れられる凄腕さんの事だから早々に犯人を外へ連れ出していたのでしょう、サイラスが確認した時にはもうテリオンの姿は無かったもの。
クローチェが大袈裟な言動をしていたのも、テリオンの動向を犯人とサイラスに気取られないようにしていたからなのではないかと、彼は考える。
(テリオン君はクローチェ君の酔いも演技だと言っていた。どこからどこまでがそうだったのか、判断が難しい所ではあるが……本当に深酒をしていたら反応が鈍る筈だ、瞬時に動くのは難しい。だが彼女は私が店主に注文を伝えようとした際、手を上げさせないようにすぐ動いた。冷静であった証拠だ。表情や話し方から相当酔っているように思えたが、思い込ませるよう狙って演じていたのだとしたら……確かに、大した演技力だ)
クローチェが突撃して来た時にサイラスが言った「いつもはここまで酷くなかったと思うのだが」の通り、彼女が愉快な言動をしまくるくらいに酔った姿を、私達はまだ見た事が無い。陽気な性格であるのは元からだけれど、彼女が一人で酒場に行かなくなったのは危機回避の為。ならばトラブルを招くような過度な飲酒もなかなかしないでしょうね。
飲みはしても飲まれない、気分は高揚し身体に火照りが生じても冷静さは失わない、自制を心掛けた飲み方。旅を続けていればいつかは羽目を外す事だって有るかもしれないけれど、少なくともそれは今夜ではなかったという事。
舞い歌う時のように感情を込めて、本当は酔っていないが気付かれないよう全身を使って演じていたのだ、彼女は。
(……あの問いは、不安そうな感情を表した時は、本心から尋ねたように思える。普段もスキンシップは多い方ではあるが、冷静な判断と洞察力が働いたのなら私の困惑も感じ取っていたのだろうし、やり過ぎて嫌な思いをさせたかもしれないと考えたのかな)
上げた手を制止させられ、ぽつりと呟いた声を聞いた時、正面から悲哀の眼差しと見つめ合ったサイラスは一瞬息を飲んだ。言葉が出なくなるくらいに、それまで大袈裟な程に陽気だったのが消えたあの瞬間、彼女は心から不安を顕にしていた。酒が入ると感情の起伏が激しくなる事も有るとはいえ、咄嗟に口から出た注視させる為の言葉などではなかったという確信を、彼は抱く。
(あの時の彼女は、紛れも無く真実を口にしていた。注意を引く為の酔いの演技も恐らくは直前まで。……不安にさせてしまったのは申し訳無かった。クローチェ君にはやはり笑顔が似合う、眩しいくらいに輝いて居てほしい。伝えた通り、彼女と接していて嫌だと思う事は無い。此方まで心から楽しさを感じられる事が多々有るのだから)
そう思うのは、サイラスにとってクローチェも大事な仲間の一人であるから、年上として未来有る年下を守り導いていかねばという大人としての在り方から、なのだけれど。支え合う関係である仲間に対して一方的な庇護を与えるのは、違うわよね。
(私を「先生」と呼び慕ってくれる年下で、ころころと変わる表情が可愛らしく、興味が有る事柄を積極的に聞いてくれる様子から生徒のように思えていたからとはいえ、失礼な事をしてしまっていた。これは侮りであり、私の傲りだ。トレサ君に対しても同様の気付きが有ったというのに……)
これまでの旅での助け合いで、人々との交流においても戦いの場においても、各々の役割からサイラスが前に出る事は多々有った。話術と魔法を巧みに扱う彼が居たからこそ成せた場面も数知れず。
けれどそれは、クローチェだって同じ。後ろで守られていただけではないもの。朗らかな彼女が声を掛ける事で人心を掴めた事も有れば、身軽さと物理力は踊子の方が勝っている、なんて事も分かっていた。
(今日守られていたのは私の方だ。認識を改めねばならない。クローチェ君の舞い歌う技術と感情の込め方、歌に取り入れる知識への意欲は素晴らしいと感心してはいたが……また新たな一面に触れる事が出来た。彼女は思っていたよりもとても強かで、美しい女性だ。旅を続けてそれなりの日数が経過し、ある程度は仲間達の事を把握出来たと思っていたが……知らない面が他にも隠されているのかと思うと、非常に興味深い)
もっと知る事が出来たら、奥底の心理に触れる事が出来たら、その先に在る真実を掴めるだろうか。
「──なるほどね」
まだまだ自分は、彼女の事を理解しきれてはいないらしい。
辿り着いた結論は、更なる未知への好奇心を大いに疼かせ、サイラスの留まり知らずな探求への意欲をますます高めたのだった。
それからサイラスは暫くの間、一連の推察の要訂正箇所が何処かを洗い出し、自身も納得出来る正しい答えに行き着くまで、その場で思案し続けた。鍛錬から戻ったオルベリクが「……何をしている?」と声を掛けなければ、もしかしたら行き着いた後もまた別の事を考え始めて夜が明けていたんじゃないか、ってぐらいにね。
頭の中がクローチェに関する事でいっぱいになってた、なんて言えば素敵な事のように思えるのだけれど。実際は仲間達への理解度と、盗難被害の真相解明についてを考えていただけで、色事とは無縁なのが彼らしいといえば彼らしい。
こうして、踊子が盗賊を巻き込んで学者を振り回した夜は、達成感と新たな理論の道筋を生み、静かに更けていった──……。
* * *
──と、ここで終わりのようで……実はね、まだもう少しだけ続きが有るのよ。お話してもよろしいかしら?
謎が生じる少し前、学者は知らない、踊子と盗賊で行なわれていた裏話を。
* * *
「…………ねぇ、テリオン」
「──なんだ」
「今、大変なモンを見ちゃった気がするんですが」
カウンター席の端の方でゆったりと、一人は話し続けて一人は黙々と飲んでいた時。入店してきたサイラスと目が合い手を振って挨拶をした直後、クローチェはある一点を見て自分の目を疑いながら、テリオンの手を軽く叩いて呼び掛けていた。
「あの、あの席のさ、おねーさん達なんだけど……」
「他の客がどうした」
「持ってるあの、お財布ってさぁ?」
「……財布?」
見て、とクローチェが示した方に、一体なんなんだと面倒くさそうに思いつつも顔を向けてみれば、二人組の女性客が愉快そうに盛り上がりながら飲んでいる様子が伺えた。
しかし、彼女らの手元に有った物は、そう。
「……サイラスの財布、か?」
「だよね、だよね!? その辺の人は持ってなさそうな、かなりお高そうなお財布だよね!?」
「あぁ、あの学者先生お似合いの趣味が悪い財布だな」
「褒めてなさげのコメントだけど、テリオンが言うならやっぱアレそうかぁ……!」
どうして仲間でもない赤の他人がサイラスの財布を持っているのか。たまたま同じデザインなだけ? と思いもするが、その可能性は無いだろう。彼の財布はアトラスダムから遠く離れた地でも流通しているようなデザインではなく、二人組の女性客も貴族のお家柄とは到底思えないような一般的で地味な格好をしていたから。
加えて、彼女らは支払いを行なう為に財布を出しているのではなく、雑に扱いながら中身を確認してケラケラと笑っていたのよね。
「盗まれたって事?」
「この街で稼いでる同業だろう。話題の当事者がすぐ近くに居たとはな……」
「え、何か話題になってた?」
「あんたが一人でベラベラ喋ってる間に仕入れた情報でな」
「すごい! でも聞いてなかったのは寂しいじゃないすか!」
「いつもの事だろ」
「そうだけどさぁ~ちょっとくらいは聞いててくれても良いじゃ~ん」
少々拗ねつつも、クローチェはテリオンが仕入れた情報とやらを他の客に聞かれないよう小声で説明してもらった。
この街では盗難被害が相次いでいて、犯人を探してはいても未だ確保には至っておらず、被害者が増え続けている……耳の良いテリオンは恐らく、他の客の会話は勿論、街の役人がサイラスに話していた内容についてもしっかり聞き取っていたのでしょうね。これまで盗賊稼業を続けていた彼が身に付けた一流の技だわ。
「取り返さないと!」
「必要か?」
「当然! このままじゃ先生、無銭飲食犯になっちゃうよ」
「盗まれたのはあいつに警戒心が足りていなかったからだ。大方、街中で何かに興味を引かれてうろついてた間にでも盗られたんだろ。あの男、何か有っても大抵の事なら何とかなるだろうと甘く考えている所が有るからな……」
「まぁうん、例え危険でも気になったら突っ込んでく感じは有るよね、先生……」
仲間から残念な印象を抱かれている事は少し、可哀想にも思えたけれど……私も概ね同意見だったのはごめんなさいね。
テリオンの予想と聞き取った会話の通り、街中を騒がしている盗賊だった二人組は入店前にも盗みを働いていたようで、よく見ると彼女らには不釣り合いの装飾品が幾つか指に嵌められている。そして、サイラスは誰から見ても同様の評価を得そうな整った容姿をしていて目立つから、彼女らも彼が入店した事に気付いていて……盗んだ財布の中身を確認した後、まだ何か金品を持っているかも、と話しているのがテリオンの耳には届いた。
「……サイラスを狙っているみたいだな」
「えっ!?」
「相席している男が離れたら近付くつもりのようだ。ついでに男としても利用してやる、と」
「言い寄られても全く気付かない超ニブチン女心何それ分かりませんマンに挑むのは無謀が過ぎる……」
「酷い称号だ……。あの無自覚に他人を褒める所はどうかと思うが、逆に言いくるめられて意欲が失せるかもしれんな」
「そうなったら先生マジ魔性! ……けど、それは無さそう」
「根拠は?」
「テリオンだったらやめる?」
「まさか。褒め言葉もオマケで頂いて帰るだけだな」
「ほらぁ」
小声で話しつつもクローチェはちらちらと二人組やサイラスの方を伺っていて、顔に「今すぐ何とかしたい」と文字が書かれていそうなくらい分かり易く気持ちが表れており、どう動くか真剣に考えているようだった。その様子を見て、止めても無駄だな……とテリオンも察し、軽く溜息を吐く。
「……で?」
「うん。サイラス先生を守りたい、協力して」
「俺に盗め、と」
「わたしが先生に絡み酒するから、テリオンはおねーさん達にちょ~っと上手い事言って連れ出しつつ取り返してくれない? あいつに手を出したらやべ~ぞ、とか」
「死にたくなかったらやめておけ?」
「真っ黒コゲになるぜ!」
「奴の魔法なら可能だろうな」
「たまにコゲそうになる我々ですわ」
「見返りは?」
「ん~、じゃあこれから一ヶ月わたしが飲み代を持ちます」
「……毎日は飲まんが、まぁ良いだろう」
「ありがとテリオン! さっすがボディガード!」
「お守りの間違いだ」
作戦を伝え了承を得るとクローチェは笑顔になり、飲み掛けだったグラスの中身を飲み干してから店主に「コレもう一杯! それと、お勘定!」と伝えた。追加のグラスが置かれてから自身の財布を取り出し、「あっちの黒いお兄さんの分も」と学者のローブを羽織る男性サイラスを指で示して注文内容を確認して、自分とテリオンとサイラスの酒代を手早く支払う。
それだけではなく、盗賊達が何を飲んでいたのかテーブルの上に有るジョッキから判断し、その分の額もテリオンに手渡した。これを使ってあの人達を連れ出して、という事なのでしょう。
サイラス達の会話が終わってしまう前に動かなければと時間との勝負だったとはいえ、クローチェの行動は迷い無くサッと済まされていった。そうして「よし、」と意気込んでからグラスを手に持ち、席を立つ。
「じゃ、よろしく! また明日!」
「……あぁ」
今日はもう会わないだろうから、の意味を込めてテリオンに挨拶をして、クローチェはサイラスの方へと駆けて行った。どんな風に現れたのかは冒頭の通り、彼を驚かせようと後ろから遠慮無く飛び付いたわ。
完全に酔っ払ってます、を全身で演じてサイラスにべったり絡んでいく様子を座ったまま見ていたテリオンも、先程までの彼女とはまるで違う姿に感心する。
(……ほう、あいつも相当な役者だな。思っていた以上に周りもよく見ている。普段の馬鹿っぽい雰囲気も、実は演技だったりするのか?)
声色を自在に操り相手を騙す演技力と変装が得意なテリオンには、私達も毎度驚かされるばかりだけれど……演じる姿に少しだけ自分に近いものを彼は感じつつ、開けっ広げなようで隠してある面がまだ有るのかもしれないと、クローチェの評価を変えていた。
(まぁいい。仕事をするだけだ)
仲間達の様子はそこで見終え、突然現れ大袈裟な言動で目立つ女を見てあいつらはどうしたか、と二人組の様子を伺う。狙っていた男に近付けなくなった事に多少なりとも驚いているようであるのを確認してから、手渡された交渉道具を握り、彼も席を立った。
首元のマフラーを少し顔に寄せ、標的が仲間達のやり取りに気を取られている内に背後へ回る。
「──なぁ、ご同業。あの男に気付かれない内に出た方が身の為だぜ?」
音も無く現れ、背後からぼそりと掛けられた声に彼女らは大きく肩を揺らした。勢いよく振り返り戸惑いの眼差しを向けてきた彼女らに対し、ニィ、と薄く笑みを浮かべてテリオンは続ける。
「まだ命は惜しいだろ? 逃がしてやるよ。……さぁ、どうする?」
何がどう危険なのかは告げず、けれど隙が無く同業と口にした男が発する低い声から忠告を理解した二人は、瞬時に青ざめた顔で身体を強張らせた。あの男にバレたら制裁が下る、待ち受けるは生の終わりだと、思い込ませたのね。
意識の変化を見逃さなかったテリオンは手に持っていた酒代をテーブルに置き、二人を外へ出るよう促して立ち上がらせる。焦燥から足早に動き扉を開けて店を出て行く彼女らの後に続きながら、閉める直前に中へ視線を向けた。ちょうどクローチェがサイラスの膝上から役人に元気よく挨拶をした所で、サイラスも気を取られて此方の様子には気付いていないようだ、と確認する。
(……お人好しに振り回される学者先生も大変だな)
そう他人事のように思いながら外に出て、二人組から「助かった」と信用の言葉を向けられたテリオンは、これからどんな餌をちらつかせて盗んでやろうか……と、小さく口の端を上げて考えていた。
自分もそのお人好しに巻き込まれていたり、後程もっと面倒を見させられる事になるとは、きっとこの時は思いもしていなかったでしょうね。
三人がこの後どうなっていったかは、既にお話した通り。
* * *
──はい、これで幕引き。
学者と踊子と盗賊が繰り広げたお人好しのお話、いかがだったかしら?
テリオンがどんな風に盗み返したか、二人組とどんな会話をしたのかは、教えてくれなかったから分からないけれど……あの街での盗難被害がパタリと止み、役場の前に盗品が山積みになって置かれていたという噂も耳にしたから、彼女らが稼業を諦めて逃げるような怖い脅しは言ったんじゃないかしら。悪い盗賊から取り返して追い払うなんて義賊みたいね、なんて思ったけれど言ったら物凄く嫌そうな顔をして臍を曲げるだろうから、例え冗談でも言うのは止めておくわ。
クローチェも、サイラスと別れた後はどうしていたのかしら? オフィーリアは三人の事情を知らないようだったから、特には話さなかったようだけれど。まぁでも、先生と二人きりで特別な夜を過ごしてきた、みたいな可憐な乙女心は見せていたかもしれないわね。
……あら、それについてはまだ内緒だった? ふふ、聞き流しておいてね。
なら、サイラスが翌朝クローチェにお礼を伝える際どこまで述べたのか、彼女がどう返してどんな気持ちでいたのかも、ご想像にお任せしておきましょう。
今回の件、一番得をしたのは誰だったのでしょうね。
サイラスを守れて独り占めの時間を過ごせたクローチェ? 推察に費やした有意義な時間と新たな道筋を見出したサイラス? 仕事もして一ヶ月分の飲み代が浮いたテリオン?
それとも、仲間の珍事を語る役割をいただいた私かしら? ……なんてね。
聞いてくださって有難う、とても楽しかったわ。またいつか、こういった面白い出来事が有った時にでもお会いしましょう。