
教え導く彼の人に
よく有る一般的な家庭。父も目立つような仕事をしている訳ではなく、母も家事に専念して家族を支えてくれる優しい人。兄妹は居らず自分一人。愛情はそれなりに注いでもらっているのだと思うし、わたしも両親の事が好きだ。折角この地で生まれたのだし学問の道を志してみてはどうかと言われ、期待を一心に受ける事になるのは大変ではあるけれど、その期待に応えられるような子供で在りたいという気持ちを抱いていた。
──しかし。気持ちだけではどうにもならない現実に、わたしは苦しんでもいる。真に知りたい事や学びたい事が見付けられず、ただ授業を受けに通っているだけの生徒にしか、成れていなかったのだ。
アトラスダムは、学びを得たい人々に広く門戸が開かれている学術の都だ。誰もが学問を追求出来る学び舎として謳われている王立学院には多くの生徒が在籍しており、日々勉学に励んでいる。こんなにも学びを求める人達が居るのかと驚き、入学した当初は厳かでありつつも優美な雰囲気と学びに満ちている環境に、胸が躍ったものだ。
……なのに。いつしかわたしは、学んでも、学んでも、楽しめなくなってしまった。知る事が楽しい、疑問に解が出ると面白いな、そう思っていたあの頃の気持ちはすっかり、見えなくなって。新しい事を学んでも、わたしの中に残るのは得た知識の感動よりも、虚無にも似た何とも言い表せない感情だった。そんな状態が続きながら受ける試験の結果だって、当然良くはなく……底辺域とまではいかずとも、優秀とは到底呼べない凡庸な結果ばかりを残してしまっていた。
父が家族を養う生活費や将来の為の資金を稼ぐ為に、汗水垂らして働いてくれているのをよく知っている。今日は何を学んできたのか、と夕食とお酒を嗜みながらわたしに尋ねるのを日々の楽しみにしてくれているようで、面白かった、もっと学んでいこうと思うんだ、と話せば、それはそれは嬉しそうに笑ってくれるのだ。
(……でも、本当は……真実を明かせないだけ)
もし、学んでいても面白くなかっただとか、もっと知りたいとは思わなかっただとか、そんな事を正直に伝えてしまったら……不快な思いをさせはしないかもしれないが、悲しげな顔はさせてしまうだろう。そうなのか、残念だな、って思わせてしまいたくない。がっかりさせたくない。失望、されたくない……。
だからいつも、学んできた事は確かではあるが、自分の感情については少し……かなり、嘘を混ぜて伝えていた。
(頑張って頑張って働いてくれているのだから、将来不自由なく使えるようにと稼いでくれているのだから、わたしも頑張って頑張って真に学びたい事を見付けたいのに、応えたいのに。……まだ、見付けられずにいる)
それがとても、心苦しくて。人生を浪費しているだけなのでは、このまま何も見出だせないまま日々を過ごしていては勿体無いのでは、何の成果も挙げられなかったら学院追放なんて事も有り得るのでは……? そんな不安が多々、襲う。
学院には当然、貴族の人達だって大勢居る。彼ら彼女らはフラットランドの各方面に出資をしている家柄の出で、それだけでも大変評価されている事だろう。賢い訳でもない庶民よりは、懐事情も良くて優れている貴族の方が生徒としても誇らしいのではなかろうか。あからさまな贔屓をするような教師にはまだ遭遇した事は無いが、我が学院自慢の生徒です、と他者に紹介したくなる人達の中に自分が含まれる訳がないのは、とっくに悟っていた。
(何も成せないわたしが、此処に居る意味。それは、何なのだろう……)
両親はきっと、わたしに学者を目指してほしいと思っているだろう。その期待に応えたい。学ばせてくれて有難うと感謝の気持ちを伝えて恩返しがしたい。
ならば、何を学ぶかを見付けて進路を決めなくちゃ駄目なのに、もっと沢山の知識を得ていかなければ駄目なのに……見付けられない焦りと経っていくだけの時間の長さから更に焦ってしまって、同じ所をぐるぐるしてばかり。
(どうしたら良い? どうしたら、どんな風に過ごせば、立派になれる? 両親からの期待に応えられて、自慢してもらえるような誇らしい学者の卵に、成れる?)
考えても分からなくて、分からなくて苦しくて、苦しくて……息が、出来なくなってしまいそうで。
(助けてほしい、誰か、誰か! ……助けて……!)
そう思うのに、口に出来ず内側で溜め込むだけだった、わたしに。
「──キミは、苦しそうに学んでいるね」
サイラス先生は、気付いてくれた。
* * *
サイラス・オルブライト先生。アトラスダム王立学院にて教鞭を執る教師の一人で、天才学者。この辺りで彼の名を知らぬ学者は居ないのではないかと言っても大袈裟ではないくらいに有名な人だ。
数々の学者が舌を巻いてしまう程の賢人で弁も立ち、誤りを含んだ論文を発表した人に指摘しては徹底的に論破して相手を再起不能にしてしまった、なんて噂も聞いた。その真相は不明だが、王族の授業も担当しているらしい人だ、正しい知識をより多くの人に教え伝える事を信条としている熱心な学者である事は間違いない。
また、物腰は柔らかく紳士的で、高圧的な態度などは見られず人当たりも悪くない。質問が有ると尋ねれば喜んで迎えてくれる優しい人で、教え方も懇切丁寧で分かりやすいとの評判をよく聞く。相手が照れてしまう程に褒めてくれる事も度々だとか。ただ長話になりがちらしいのが短所のようで、たまに相手を困らせてしまっている事も有るそうな。
しかし、背も高く非常に端正な顔立ちをしていて声も素敵、格好良い彼の長話ならいくらでも聞いていたいと、憧れを通り越して惚れ込んでしまった女生徒達には短所も長所に思えるようだ。例え結論へ辿り着くまでに時間を要しても、彼の美声を聞きながらお姿を眺めていられるのなら至福の時間である……らしい。
……とにかく。サイラス先生は、わたしが入学して間もない頃から様々な評判を耳にする教師だった。生徒達に好かれ、囲まれながら快く質問に答えている様子を見掛ける場面も多い。その人気さから彼の授業を希望していても教室の座席以上の数になってしまい、生徒間で秘密裏に抽選会をして勝ち取れた者だけが申請する、みたいな事も行われていた。
イカサマなんて一切無しの運任せ。その会で申請権を勝ち取れて、初めてサイラス先生の授業を受けられる事になったのは、つい先日の事。……でも。
(噂通りの人なのかを確かめる機会をやっと得られた、……なんて余裕は、保てなくなった)
楽しみな気持ちも確かに有った。抽選までする程の教師なのだからきっと素晴らしい事を学ばせてくれるのだろうと期待を込めて会に参加したし、勝ち取れた時は嬉しく思って、その日が来るのを待ち侘びてもいたのだ。
けれど……日が近付くにつれて、この人が教えてくれる事柄でも興味を持てなかったらどうしよう、学びたいと思えなかったらどうしよう……そんな不安が、楽しみ以上に押し寄せてきて。わたしはまた、焦燥に駆られるばかりになっていた……。
──そうして迎えた、サイラス先生の授業当日。教科書に載っている事だけでなく、口頭で伝えてくれる事柄も全て書き留めておいた方が良いのかもしれない、と彼の声を聞きながらペンを走らせ続けていたわたしは、誰よりも必死で、滑稽だった事だろう。
他の生徒は、落ち着きながら、感心して頷きながら、真剣に必要箇所だけを書き記しながら、彼の姿や声に熱い眼差しを送りながら、各々の過ごし方で授業を受けていたようであったが。わたしはとにかく学ばなければと思って、自分を追い詰めながら授業を受けていた。
教師の顔も見ずにひたすら書き記しているだけのわたしは、大勢の中で悪目立ちしてしまっていたのだろう。人をよく見ているらしい性質のサイラス先生は、わたしの異様さに気付いたみたいで……区切りまで読み終えてから近くまで歩み寄ると、わざわざ屈んで声量を落として、わたしにだけ届くように耳元で、告げてきた。
苦しそうに、学んでいると。
「……え、」
今、この人はなんと言ってきたのか。言われた直後、わたしは驚きで言葉が何も出てこなかった。どう返答すべきか分からず、手を止めて見上げる事しか出来なかったわたしに、彼は「後で少し、話せるかな」とだけ言い残して。授業を再開すべく、教科書の続きを読み上げながら教壇の方へと歩いて行った。
周りの人達から、どうしたの? とか、何か言っていた? とか、小声で疑問が飛んできていたが。その答えを知る人が居るのなら、わたしにも教えてほしかった。サイラス先生がそのまま授業を進めていくので小さな波はすぐに静けさを取り戻して、また同じように各々の形で過ごすようになったけれど。
わたしは、というと……動揺のあまり、必死さも停滞してしまっていた。
(……サイラス先生と、話す? 何を? わたしと……何の話、を?)
怒られる、のだろうか。……いや、わたしの異様さが滲み出過ぎていても不真面目な態度を取っていた訳ではないから、怒られはしない……と思う、恐らくは。しかし本当に何を話すのだろうか。何の話をしたいと思ったのだろうか。初めて顔を合わせた生徒だからどんな子か知りたい、とか、そういうのだろうか。
でも、初めて彼の授業を受ける生徒はわたし以外にも居たはずだ。実は全生徒に声を掛けては面談を行っている先生で、たまたま今回わたしに白羽の矢が立てられただけ? ……ううん、全生徒の顔と名前と人柄を把握してしまえそうな印象の人だけれど、毎度個別に面談して回っている、みたいな噂は聞いた事が無い。良くも悪くも話題になる人だから、そういった取り組みをしているのであれば、彼を慕う生徒達の間で報告が上がっているはずだもの。
(わたしが、おかしいから……気を悪くさせてしまったのかも、しれない)
……苦しそうに学んでいる、異様な生徒。おかしい生徒。自分の授業でそんな生徒が居たら嫌になってしまっても仕方無い。誰だって自分の話を聞いてあんまりな態度をしているのが分かってしまったら、快くは思えないだろうから。目を輝かせながらしっかりと聞いて、この場に居るのが正解だったのだろう。周りの生徒達のように。
(……わたしの字、こんなに酷かったっけ……)
学習帳に書き記そうとしていた自分の字に目をやると、全てを記さなければと必死だったから、殴り書きばかりでお世辞にも綺麗とは言い難いものが其処に在った。提出する訳ではない個人の学習帳なのだから自分が判読出来れば良いといっても、話していた内容を思い出して理解する効果を持たせなければ無意味。乱雑で、綴りの間違いも多々有って、読めもしなくて……この学習帳は、こんな結果を残す為に両親が用意してくれたものだっただろうか。授業を続ける彼の声も通り抜けていくばかりで、動かさなければいけなかった手も完全に止まってしまっている。
(此処へは、何をしに来ていた? わたしは、サイラス先生の授業を侮辱しに、来ていたの……?)
そう思う程に、酷い。字も、態度も、わたしの全てが此処に在る事に申し訳無さが募って。ぶわりと襲う自己嫌悪で気持ち悪くなってきて、ペンを置いて俯いた。
泣く事だけは堪えなければと思いつつも、泣いてしまいそうで……自分の両手を強く握り締めたり爪を立てたりして、痛みで自分を繋ぎ止める。
(痛い、痛い、胸が苦しい……でも泣いちゃ、駄目、駄目だ……っ)
わたしがそうしている間にも、時間は刻々と経過していって。学院内に授業の区切りを告げる鐘の音が鳴り響くと、読み上げていた彼の声もぴたり、と止まった。
「──おっと、もう終わりの時間か。では、本日はここまで。次回の内容は今日話した事柄がよく出てくる、復習しておくように」
ぱたん、と教科書を閉じてサイラス先生は終わりの挨拶を口にする。ありがとうございました、とお礼を伝える生徒達の中にわたしは混ざれず、顔を上げられたのも、周囲のやり取りが全て終わってからだった。
(……サイラス先生の初めての授業で、得たものは……後悔と、申し訳無さと、大きすぎるどす黒い自己嫌悪。こんな事態を招くつもりは、無かったのに……)
勉強道具一式を鞄にしまおうと思っても、のろのろとした動きしか出来ない。更に自己嫌悪に苛まれて、胸の辺りがざわざわする。周りが次々と退室したり、感想を言い合ったり、先生に質問しに行ったりと活発に動いているのに、わたしは片付けるだけで精一杯だった。
「……大丈夫かい?」
やっと全てを鞄に収められて息を吐くと、頭上から声が聞こえた。宣告通り再びわたしの元へやって来ていたらしいサイラス先生は、わたしが見上げようとするよりも早く、先程よりも低めに屈んで、わたしの顔を覗き込んだ。
心配そうにこちらを伺う彼に、また胸がぎゅっと苦しくなる。何か、何か言わなければ、と気ばかりが急く。
「ご、……っごめん、なさい……」
何とか口に出来たのは、それだけ。謝らなければ、申し訳無い、謝らなければ、と思っていたから出てきたのだろうと分かっていても、絶対に他の返事の方が良かった。聞いたサイラス先生も、不思議に思ったようで尋ねてくる。
「何故、謝る?」
「……ごめん、なさい……ごめんなさい、ごめんなさい、先生」
「キミは何も悪い事をしていない、謝らなくて良いんだよ」
「で、も、」
「おや、……その手は」
「……!!」
鞄に置いたままでいたわたしの手に目を向けた彼に指摘され、咄嗟に引っ込めた。自分を痛め付けていた爪痕が残り赤くなっているのを気付かれてしまった事に、申し訳無さだけでなく恥ずかしさも襲ってきて、居た堪れなくなってくる。サイラス先生の顔を見る事が出来ず、ばっと反対側へ顔を背けた。
(みっともない、みっともない! こんな、こんな姿を、晒してしまうなんて……っ!)
抑えようとしていた涙が今度こそ溢れてきそうで、ぎり、と自分の手に強く爪を立てる。
彼の前でこうしていたって仕方無いのに、問われているのだから答えなければならないのに、言えない。声が出ない。この場から去ってしまいたくても、身体が震えて、動けない……!
「──落ち着いて」
……すると。わたしの肩に、そっと彼の手が乗せられた。触れられた事でびくり、と跳ねてしまったが、サイラス先生は優しい声で「大丈夫だ」とも言ってくる。
「外の空気を吸いに行こう。今日は風が心地良いし、日差しも暖かい」
「……わ、……わた、し、」
「大丈夫。私が傍に居よう」
提案されても動けず震えているだけの、わたしに。サイラス先生は、強く握り締めていたわたしの手を、上からぎゅ、と包み込んだ。
大きな掌で包まれた感触に、え、と彼の方を向いたら。穏やかな笑みを浮かべていて。
「おいで」
優しい声音でそう言い、そのままわたしの手を取って立ち上がる。
「あ、……っ?」
突然の行動と言葉に戸惑う間も無く、サイラス先生はもう片方の手でわたしの鞄を持つと、手を引いて教室の外へと歩き出していった。つられてわたしも席を立ち、よろめきながらも後をついて行く事になる。
きゃあ、と甲高い声が聞こえたような気がしたが、目の前で揺れながら進む黒のローブしか見えず、自分以外の熱が掌から伝わってくる事で頭がいっぱいで、確認なんてしていられなかった。
(な、に? なにが、おきてる……?)
手を引かれるままに進んで行く。すれ違う人々がわたし達に目を向けては何かを言っていたようだけれど、サイラス先生は構わず歩くだけ。廊下を進み、ちょうど人が通った事で開け放たれていた出入口の扉を抜けて、陽が差す外へと連れ出される。
そのまま門外の階段を降りて行こうとするので、なんとか弱々しくも「あ、の」と声を発したら、彼は一旦足を止めてこちらに振り向いた。
「ど、……どこ、へ?」
「昼食がてら軽食を買って行こうかとね。学院の敷地内だと話しにくいだろうから、落ち着ける所へ案内するよ。私もよく一人で過ごす場が有るんだ」
「え、っと、お昼……?」
「あぁ、もしかして持参していたかな。ならばテーブルが有る場所の方が良さそうか……」
「あ、いえ、何も……持って来てない、です」
「ではキミの分も一緒に。支払いは私が持つから気にしなくて良い」
軽く説明を添えて答えてくれると、彼は再び歩みを進めて階段を一つ降りた。困惑から石段をテンポ良く鳴らす事は出来ずにいるわたしに、「ゆっくりで構わないよ」と声を掛けて、一歩先で待ってくれている。
何処かへ向かおうとしているのなら、引き止めてしまうのは良くないだろう……疑問は有るが今はついて行こうと、足を踏み出した。
コツ、とん、とん。
コツ、とん、とん。
大きな一歩と、小さな二歩。一段ずつ彼とわたしの靴音を響かせた其処の最下に漸く到達すると、サイラス先生は大通りの方へと向かうようで、進む彼の後に続いた。
「私を壁にして歩くと良い」
学院の有る区画から繋がっている大通りは、昼時とあって人の行き交いが多く、とても賑わっていた。サイラス先生の気遣いを受けて歩こうとしていても、つい対向や後方から来た人にぶつかってしまいそうになって。けれど、それに気付いた彼は建物側にわたしを寄せて、守ってくれた。実に優雅に、紳士的に。
目的のお店の前で立ち止まったサイラス先生が店主に注文している間、わたしの心臓はどくどくと大きく鳴り続けていた。城下町は人々の声がよく響いていたが、それに負けないくらい、わたしの心音もよく聞こえる。
(……どうして、こんな風に、してくれるのだろう)
手はずっと握られたまま。注文した軽食が入れられた紙袋を受け取る際にだって離そうとはせず、サイラス先生は器用にわたしの鞄を持ちながらそれを胸に抱え、「待たせたね、行こうか」と声を掛けて歩き出すのだ。
自分で持つ、代わりに運ぶ、と言ってもどちらも渡してはくれず、わたしの手を引いて行く。それに手が離れてしまいそうになると、またぎゅっと力を込めつつも優しく、握り直してくれていた。はぐれないように、迷子にならないように、独りにさせないように……。
今日が初めて顔を合わせた、何の良い所も持たない生徒なのに。どうしてこの人は、こんなにも優しくしてくれるのだろうか。大丈夫だよって微笑んで、わたしを安心させようとしてくれるのだろう……?
「──さぁ、着いたよ。此処だ」
大通りを離れ、住宅区の更に奥まった高台へと向かって行き。小さな広場にぽつん、と置かれたベンチの前で足を止めたサイラス先生は、わたしに其処を紹介した。並ぶ家々の屋根など住居はよく見えるが、それ以外には周りに目立つものは無い。本当にただベンチが置かれているだけ。有るとしても壁と街灯くらいだ。
慣れた様子でベンチにわたしの鞄を端に置くと、ずっと握られていた手も離れていき、彼は隙間を空けながら反対側に座った。此処に座って、という事だろうか。失礼します、という意味を込めて頭を下げてから、わたしも隣に座る。
サイラス先生の手が離れた後も、熱は残っていて。教室で震えていた身体も、彼と共に町中を歩いて来たからか少しは力が戻り、震えも胸の音も治まっているようだった。
「どうぞ」
「……ありがとう、ございます」
抱えていた紙袋を開くと、サイラス先生は中身の一つをわたしに差し出す。包み紙に綺麗に収まっているサンドイッチ。中を開いてみると、柔らかそうなパンに挟んである具は野菜と薄くスライスされた肉のシンプルなものだった。味付けのソースはお店独自の配合がされているのか、普段母が作ってくれるものとは異なる香りがする。
「食べられそうかな」
「あ、えっと……大丈夫、だと思います」
「もし苦手な味だったり胃に入りそうになかったら、無理をせず残して構わないよ」
「はい……」
また優しさを向けてくれた後、サイラス先生はいただきます、と言ってサンドイッチを食べ始めた。口に入れられていく様子を見るのは失礼だろうなと思い、わたしも両手で持っているそれに目を向けて、小さくいただきますを言ってから口に含んだ。
(……美味しい)
元気が有る状態と同じように口を開けながら食べるのは難しいが、美味しいと思えた。味覚もおかしくなってはいなくて良かった、とほんの少しだけ安堵する。
ちまちまと食んで咀嚼して飲み込んで、を繰り返していると。食べる時は食べて話す時は話して、としっかり弁えている彼は、ある程度食べ進めてから残りを手に持ちつつ、話し始めた。
「私は行き詰まるとよく此処へ来るんだ。賑やかな場で刺激を受けたい時も有れば、こうしてゆっくりと静けさと一体になり、思索に耽りたい時も有る。読書の場として利用する事も多いかな。風の心地良さを感じたり、遠くの音を聞いたりするのも、とても落ち着けるんだよ」
「そう、なんですね……。確かに、風は心地良いと、思います」
「この町にはそういった休息の場が各所に設けられている。住まう人々の交流の場として、学びに励む者の気分転換の場として……研究に没頭して室内に籠ったままの学者を表へ引っ張り出す為の場として、でもあるね」
思い返してみれば、町のあちらこちらに人が座れる場所が有った気がした。主婦同士の憩いの場であったり、友人同士や小さな子供達の談笑の場であったりするそれらは、美しい町並みの景観を更に引き立たせる為なのだと思っていたが。どうやら明確な意図が有って設けられていたらしい。大きな首都であるといっても何年もこの町に住んでいるのに、まだまだ知らない事だらけだ。
「目の前の事柄に熱中するのは悪い事ではないが、外の空気を吸う事も非常に大切だ。閉鎖空間にばかり居ては、見えるものも見えなくなってしまう」
「……閉鎖、空間」
「……キミの心も、閉じられた場所に在るように思えた」
町並みに目を向けながら話していたサイラス先生は、不意にそう続けると、わたしの方に顔を向けた。じっ、と見られているのが分かり、思わず萎縮して、サンドイッチを持つ手も強張る。
「……え、……っと、」
「怖がらせてしまっているのならすまない。そう怯えずとも、私はキミの手助けを出来たらと思っているだけだ。叱り咎めるような言葉は決して向けないと誓う、安心してくれ」
「手助け……?」
「あぁ」
彼の言葉を聞き、恐る恐る、と顔を見てみる。サイラス先生は真剣に、それでいて穏やかに、わたしを真っ直ぐ見つめていた。
濁りの無い綺麗な青色の瞳。其処には、詭弁や欺瞞、わたしを弄するような意思は感じられない。心から、わたしの手助けをしたいと思ってくれている、ようだ。
「キミが私の授業を受けるのは今日が初めて、で合っているね?」
「……は、い」
「嬉しかったよ。授業を受けたいと希望してくれた事も、熱心に書き記してくれている事も。また一人、学問への情熱を抱いている生徒が此処へ学びに来てくれたのだと分かって」
「……でも、わたしは……」
「うん、そうだね……初めは、どんな事でも取り込もうとしている子なのだろうと思った。そういった勤勉な生徒は他にも見てきたから、キミも似たようなタイプなのかもしれないな、と。しかし……時間が経つにつれて、様子が違う事に気が付いた」
「…………」
サイラス先生は、教科書を読み上げながら、記載されていない事柄についても多々話しながら、教室内を行き来して生徒達の様子を見ている、らしい。それは個人の人柄を知る為でもあり、問題を投げ掛けて理解を深めてあげられるようにでもあり、難しそうにしている様子だったらいつでも答えてあげられるようにでもあると。ただひたすら教壇の前で自分が述べていくのではなく、言外でも対話を行いながら授業をしていけるようにと、彼の心遣いが込められたスタイルだった。
そういつものように授業を進めながら、生徒達の様子を見ていたら。熱心に学んでいる、のではなく、焦燥に駆られて手を動かしているだけ、のわたしに気付いたのだろう。
「どんな表情をしていたか、分かるかい?」
「……いいえ……どんな、酷い顔、でしたか」
「とても、辛そうだったよ。書いて、書き記して、なんとしてでも身に修めなければとでもいうような執念をも感じた。楽しんでいるようには見えなかったし、あのまま続けていたら壊れてしまうのではと感じたから、私も声を掛けたんだ」
「…………ごめん、なさい」
「キミは何も悪くない、必死だっただけなのだから」
申し訳無くてまた謝罪を口にすると、サイラス先生は首を横に振りながら「謝らなくて良いんだ」と、教室でも言ってくれた事を再び伝えてくれた。それでも申し訳無く思って顔を手元に向けてしまい、くしゃり、と包み紙が音を立てる。
「学ぶ事に苦しんでいるのであれば、その理由を知って力になれる事を探したい。自分ひとりではどうにもならない状況でも、他者と関わる事で見えてくる道も有るだろう。一方的に教え伝えるのではなく、キミ達の支えとなれるように我々が居るのだから、遠慮なく頼ってくれたまえ」
「……頼る……」
「……キミは少し、人に甘えるのは苦手そうだね。責任感が強いのだろう、だからこそあんなにも成し遂げねばならないと必死さを見せていたのだと思う。責任感を抱く事そのものは素晴らしい。けれど、自分の身を傷付けてまで苦しみに耐えなくて良いんだ」
とん、と彼は指先で自身の手の甲を示して見せる。わたしが自分の両手に残した爪痕についてを言っているのだろう。時間が経って少しは赤みも引いているが、それでもまだ目視出来るくらいには付いてしまっている。隠すように手の向きを変えると、彼は苦笑いを浮かべた。
「痛め付けても、更に心が悲鳴を上げてしまうだけだ。それに美しい手をしているのだから、痕を残してしまっては勿体無いよ」
「……わたしは、美しくなんかない、です」
「どうして、そう思うんだい?」
「……みっともなくて、全然頑張れて、なくて……何も成せていない、から」
容姿についても自信なんて無いし、心については醜さしか感じられない。ただ生きていて、毎日を糧に出来てもおらず無駄にしているだけの、わたしに……美しさなんて、宿らないだろう。本当に美しいのは、賢くて、自分の進みたい道も見えていて、目標を掲げながら努力を続けている人達の事だ。
例えば、そう……メアリー王女様やテレーズさんのような人。王女様は自分の役割をきちんと分かっていて期待以上に応えてみせようと勉学に励んでおられるし、何より楽しんで取り組まれている。学ぶのが楽しいと、今日はどんな事を教えていただけるのかを想像すると胸が躍って仕方無いと、庶民のわたし達にも気さくにお答えしてくださっていた。将来を見据えながら日々を糧にしているあの人がいずれ王座に就くこの国は、今後も安泰である事だろう。
テレーズさんも、わたしとそんなに歳は変わらないのに、毎日の学びを頑張って糧にしているようだった。難しくて覚えるのが大変、と友人に零しているのを見掛けたけれど、でも絶対に覚えて今後の勉強に活かしてみせる、という意気込みも見せていた。彼女が努力家で芯を持った人である事は聞いていたし、そんな彼女だからこそ一緒に頑張っていこうと周りも声を掛けて、共に歩を進めて行こうとするのだ。
両者が太陽と月に喩えられているのも、その意志の強さや立ち居振る舞いが美しいからだろう。容姿だけでなく内に抱く心も美しいのであれば、例え異性でなくとも見惚れてしまう。わたしも、憧れに似た羨望を、彼女らに向けている部分が有りはするのだから……。
「……良ければ、キミを追い詰めてしまっているものが何なのか、教えてくれないか?」
「……。……上手く、言えない、です」
「思っている事をそのまま伝えてくれれば良い。上手く言わなければ、完璧にしなければ、そういった事は考えず吐き出してしまうんだ。全て私が受け止めよう」
「先生……」
「大丈夫。どんな理由であろうとも、キミに失望なんてしないよ」
サイラス先生は、優しい声音で宣言する。再度彼の顔を見れば、そのあたたかな眼差しは細められていて……相手を慈しむような想いが、感じられた。
(……不思議な、ひと)
まだ会ったばかり、話を始めたばかりであるのに、相手の事をよく知らずとも力になろうとしてくれている。いや、知らないからこそ、知ろうとしてくれているのか。教師として放ってはおけなかったから、先輩として出来る事が有るかもしれないから、と彼の誠意が伝わってくる。
生徒達から慕われている理由の大部分は、こうして一人ひとりと真摯に向き合ってくれるから、なのだろう。
「…………わたし、は。両親の薦めで、入学しました」
ぽつり、と呟くように話し始める。どう話そうか、どういった言葉にすれば良いのか、少し刺激を取り込んだりもしようとサンドイッチを一口食べたりしながら考えている間も、サイラス先生は食べ掛けのそれを持ったまま口には運ばず、じっとわたしの声に耳を傾けてくれているようだった。
「両親がいつも、わたしが勉強に専念出来るように、と頑張ってくれているのを、知っています。何を学んできたのか、と尋ねて、わたしの答えを聞くのを、楽しみにしてくれていて……その期待に応えたくて、頑張ろうとしては、いました。学者になったら、もっと喜んでくれるのかもしれない。きっと二人も願っている、はず。だから、頑張ろうって……していた、のに。どんどん、分からなくなって、しまって……」
「……何を、かな」
「……わたしが学びたい事って、何なのだろう、って」
期待に応えたい、応えなければ、その為に学んでいかなければ。学ぶ動機はそうだ。焦燥に駆られるばかりの日々になってしまっている今でも、両親に応えるために、という目的は変わっていない。苦しくて仕方無くても、二人を恨んだりはしていないし、全てを投げ出してしまいたいという訳でもないのだ。ただ、学びたい事柄が見付けられなくて、目に見える成功を何も、生み出せていない……。
自分の不出来さが悔しくて、憎らしくて、嫌で嫌で堪らない。もっと賢ければ、周りのように目を輝かせながら学んでいられたら、そう思うのに成れない現実の辛さを味わうばかりで、進むべき道が分からず同じ所をぐるぐる回り続けている。
前、とは、先とは、何処に有るのか。探し続けているのに、見付けられないまま。
(まるで、真っ暗闇の中に居るよう。目標だけが遠い遠い所で光っている。手を伸ばしても届く訳がないし、足を動かしているはずなのに、移動なんて出来ていない。一歩も前進、出来ていない……)
躓いて、転んで。なんとか身体を起こそうとしても、起きたって無駄なんじゃないかと思えてしまう程の闇が広がっている。どんな道も険しくて簡単には進めないといっても、こんなにも暗くて何も見えないものなのだろうか。
実は目的までの道は既に絶たれていて、踏み出してみても更に闇の奥底へ落ちていってしまうだけなんじゃないか……そんな良くない想像も、幾度もした。怖くてなかなか寝付けない事も、頻繁に有った。
「最初は……本当の最初、知るという事に触れた、時は。日常で当たり前に有る様々なものも、成り立ちや今の形に至るまでの歴史が有ると、知って……そうなんだ、そうだったんだ、と驚きを得られて、いました。じゃあ他のものは? 他の事柄にはどんな真実が有る? そう疑問を抱いて、次を調べる事も出来ていた。けれど、気が付いたら……新しい事柄に触れても、知った時の感動というものが、感じられなくなって、いて……」
「……そうか」
「……どうして、なんでしょうか。学んでも、面白くなくて。もっと学びたいと思うような感動も、無くて。最初の頃よりも沢山の事柄に触れてきたはず、なのに……今は、ただ毎日授業を受けているだけ、で。成績だって良くない、こんな事では学者になんてなれやしない。もっと学んで、心から学びたいと思える事柄を見付けなくちゃ。なのに、見付けられないままで……それがとても、苦しくて」
「それでキミは、例え心震わせる事柄でなくとも身に修めねば、と必死に足掻いていたのだね」
「…………」
溢れ出すようになってしまいつつも吐き出したわたしの話を聞いて、サイラス先生は深く、頷いた。つまりは、という風にわたしに投げ掛けた言葉に対し肯定の意で頷き返すと、彼は「ふむ……」と呟きながら空いている片手を顎に添えて目を伏せ、何かを思案し始めたようだった。
暫し、わたし達の間に沈黙が流れる。
(……やっと誰かに、この苦しみについてを打ち明けられた)
しかし、こんなつまらなくてくだらない話を聞かせてしまって良かったのだろうかと、不安も生じてくる。どんな内容だとしても失望しない、とサイラス先生は言ってくれたけれど。返答に悩んでいるから、ああして考え込んでいるのでは、ないだろうか……。
(優しい人だ、わたしを傷付けないような言葉を選ぶような気がする。そうさせてしまうのは、申し訳ない……)
あの、と切り出そうとして、口を開く。──けれど、わたしが発するよりも、先に。
目を開けたサイラス先生は突如、食べ掛けだったサンドイッチを一気にぱく、ぱく、と口に詰め込んだ。
「……!?」
手で口を押さえながら咀嚼を繰り返す様子と、見た目からは想像もしなかった大胆な食べっぷりに、わたしは驚いてしまった。先程までは恐らく普通に、彼に合う優雅さを漂わせながら食べ進めていただろうに……?
いきなりの行動に目を丸くさせていると、ごくん、と飲み下して懐から取り出したハンカチで自身の手と口元を拭い。「いや、失礼」と言いながら畳んだ包み紙を紙袋の中に放り込み、わたしに向き直った。
「話に集中したかったから食べ切ってしまおうと思ってね。見苦しいものをお見せした」
「あ、いえ……」
「──さて。キミが抱えている悩みについて、私なりの解を伝えたいのだが……まずは、その鞄の中身を見せてもらっても良いかい?」
「鞄……?」
彼はわたしの傍らに有る鞄を手で示す。サンドイッチを手に持ったままなのでどうしよう、ともたついていると、「開けても構わないかな」と申し出てくれた。頷いて背凭れ側に身を引くと、サイラス先生は手を伸ばして鞄を掴み、引き寄せたそれの留め金を外して蓋を開け、中に入っている数冊の教科書を取り出して表紙に目を向けていく。
「……うむ、やはりその可能性は高そうだ」
「教科書が、何か……?」
「確認したい事が有って。他にはどんな授業を履修している?」
「他、は、ええと……」
尋ねられ、自分が学ぼうとしている教科を思い出しながら伝えていく。数式を扱うもの、芸術や植物や哲学など専門的なもの、まだ知識の段階である魔法の扱いや、脅威となり得る魔物の生態について、なども挙げる。今日サイラス先生に教わっていたのは、この土地や大陸各所の歴史だ。別で枠が設けられている文学も貴方から教わる予定であると添えれば、嬉しそうにしてくれた。
他にも、現在に至るまでに何を学んできたかを問われ、答えていく。続きを教わっている途中のものも有れば、区切りまで終えた教科も有り、技術を必要とする事柄については必要な行程を終えるまで暫くお預け、となっているものも有る。
どれも触れてみなければ分からないから、と始めたものであったが……触れても更なる興味を抱けず足を引っ張っている現状の再確認にもなってしまって、自分の不出来さを痛感してしまう。
「ふむ、なるほどね。予想していたよりも幅広く学んでいるようだ」
「広く浅く、な状態になってしまっていますが……」
「未知の世界に飛び込もうとするのは勇気が要る事でもある。それをキミはこれまで続けていたんだ、素晴らしいよ」
「そう、でしょうか……全部、良い成績なんて、取れていないのに」
「試験の結果が全てではないさ。数値で優劣を付けてしまいがちな社会では、そういった思想に囚われてしまうものなのだろうが……私は、様々な事柄に挑み続けるキミの姿勢を高く評価したい」
「!」
……そんな風に言われたの、初めてだ。成績という結果に繋がらなければ意味が無いと思っていたし、どの分野でも必ず優秀な人達が居たから、評価されるのはそういった人達だった。
自分なんかが学んでいても、あの人達のようには成れないのだと劣等感が増して将来の不安も増していくばかりで……このままじゃ駄目なんだ、とまた必死さを加速させて。それで許容範囲を超えてしまったのは、馬鹿だなぁ、と思うけれど。
「教えてくれて有難う、参考になったよ。そして確信が持てた。キミが学びを続けていても苦しくなっていくばかりで、心から楽しめていないのは……狭い世界でだけで生きる事を強いられているからだ、とね」
「? それは、どういう……?」
彼の告げた解に、首を傾げた。狭い世界とは一体、と疑問を投げ掛けると、一度わたしに頷いて見せてから、答えを述べてくれる。
「君が学んできた教科の殆どは座学が基本で、試験によって成果を判断されるものだ。確かに好成績を残せば評価されるものだし、学者になる為の道として成績優秀者の称号を求める者は多い。だが、それだけが唯一の道という訳ではないのだよ」
「……違う、んですか?」
「あくまでも選択肢の一つに過ぎない。また、数字も判断基準の一つであって、それが全てではない。学者は机に齧り付いてひたすら書物を読み漁り学んでいくもの、良い成績を修めて卒業してから初めて名乗る資格を得られるものだ、と……特定の基準が設けられた場でばかり過ごしている内に、そういった固定観念が定着してしまったのではないだろうか」
「……固定観念……」
学者とは、そういうものだと思っていた。勉学に励み続けて良い成績を修めて卒業し、そして世の為になる事を成していくのだと。学者というとどんな人か、と問えば、そう答える人は多いのではないだろうか。実際にそうやって偉業を成した学者の話を度々聞いていたし、周囲の人々も同様の話をしていたから、わたしも其処を、そんな人物に成る事を目指さなければと、思っていた。……思い込んで、いた。
けれど、サイラス先生はそれだけが正解ではないと言う。では、学者とは何なのだろう? どんな人達の事を指しているのだろう? 何を学び、選んで進み、そう呼ばれるようになったのだろうか。
彼が述べる解に対して戸惑いつつも耳を傾けていると、応えてくれるべく続きを話し始める。
「数値化出来ない分野もこの世には数多く存在しているし、そもそも学び舎といった施設を出てはいない学者も大勢居る。では何故、彼らは学者たり得るのだろうか? ……答えは単純だ。それは、知りたいという熱意を抱き、興味を抱く事柄を追求し続けたから。学者の本質は、知ろうとする事。そして得た知識を活かす為にはどうするかを考え、動く事。極端に言ってしまえば、そうだね……好きな事に情熱を注いでいたらいつの間にか学者になっていた、かな」
「そ、……そんな事、有るんですか?」
「勿論だとも。世の中には、様々なタイプの学者が居る。キミが想像する通り座学で好成績を修めた上で学者の地位を獲得した者も居れば、成績などにはまるで関心が無く、己の信条を貫いた結果そう呼ばれるようになった学者も大勢居る。例を挙げるとキリが無いので控えておくが、どう励むかの違いは有れど、みな同じ学者なんだ」
「…………」
「……想像し難いのも無理もない。価値観というものは、過ごす環境の影響を受けながら形作られていく。恐らくキミの周囲には、学者とはこう在るもの、と認識が共通している者が多かったのだろう。その狭い世界での当たり前にのみ触れている内に、キミが苦しむだけになってしまったのならば……いっそ思い切って違う環境に身を置いてみるのも良いのではないかな、と私は思うよ。こうして今のように、──外へ」
サイラス先生は立ち上がると、一歩、二歩、と踏み出し。町中を、その先の世界をも示すように、両手を広げて見せた。
途端。柔らかな風が吹き付け、彼の髪や袖を結うリボン、長いローブがふわりとはためく。金の装飾品と刺繍も陽の光を受けて、きらりと瞬いたように映った。
その美しさに、一瞬──わたしの目は、奪われる。
「在り方の正解は、一つなどではないんだ」
こちらに振り向いた彼は普段の涼やかさを浮かべながらも、内に情熱を抱きながら、優しい笑みでわたしに説き続けていく。
「キミは今まで、この土地よりも外へと赴いた事は有るかい? フラットランドだけでなく、近隣のコーストランドやフロストランド、またはもっと先の所へまで」
「いえ……まだ、一度も」
「ならば是非とも、その目で見て、足で踏み入れて、感じてみてほしい。全く異なる景色と価値観を持った人々との出会いが有るだろう。一所では得られない良い刺激を必ず貰えるはずだ」
「……どう、やって……?」
「うん、良い質問だ。まずはフィールドワークを積極的に行っている授業に出てみる事をお薦めするよ。いきなり遠方へ出向くのは難しくとも、近場の行ってみた事が無い所を訪れるだけでも、日常では味わえない体験が出来るはずだ。先程教えてくれた履修教科の予定を踏まえると、ちょうどキミに適したものが有る。後で確認しに行ってみようか。折角だし、私も参加してみるのも良さそうだな」
「えっ? 先生が、他の先生の授業に……?」
「生徒以外の参加は厳禁、なんて規則は設けられていないし、そういった機会に参加させてもらう事はよく有るよ。他の教師の指導法を、学び舎の外で過ごす生徒達の様子を見て、幾度となく学ばせてもらっている。まだまだ私も、学びの途中だからね」
意外だ、と思った。……そして同時に、わたしは学者だけでなく教師に対しても似たような印象を抱いていたのか、他の価値観を知らずにいて凝り固まった考えだけで解釈していたのか、とも思った。一度そう形成されたら二度と変化は起こらないなどと、在り方が変わりはしないなどと、誰が定めたのだろう。
サイラス先生の話を聞き続けていると、少しずつ、自分の中にこれまでは無かった考え方が、事柄の捉え方が生まれていくのを感じる。
これは、新しい、学び──……!
「……っ、」
胸が、ざわつく。けれどそれは、嫌な感じがするものではない。
戸惑いも未だに有りはするが、どうしたら良いのか分からないと同じ所をぐるぐる回ってばかりで焦燥に駆られていたわたしに、真っ暗で何も見えないと思っていたわたしの前に、ぽん、と新たな道が現れたような感覚だ。
それも、届きそうにない遠い遠い場所ではなく、こんな所にも在ったのか、と思わされるような、ほんの身近で存在を示している。届く場所で、触れられる位置で、光を放つ。
わたしを導く、あたたかな掌が……真っ暗で閉じられた空間から、外の世界へと連れ出してくれる。
「……先生」
「なんだい?」
「……優秀な人には、成れなくても……学者には、なれますか?」
道は一つじゃない、と言った彼の言葉を聞いて抱いた疑問を投げ掛ける。わたしの成績が良くないのは事実だし、学院で学び続けていくのであれば、もっと点を取れるようにしなければならないのは変わらないだろう。
しかし、例え座学では到底敵わない優秀な者が居て、自分が選ばれる事は無いとしても……諦めなくても良いんだと、他にも道は有るんだよと、示してくれる彼の言葉を信じて良いのであれば。希望を抱いても、良いの? と、期待してしまう。
その確認も込めて尋ねると、サイラス先生は再びわたしの隣に腰掛けて、真っ直ぐに見つめながら「あぁ」と答えた。
「なれるよ。知りたい、学びたい、その意欲を持っているのならば、どんな者にも道は開かれているとも」
「わたし、でも?」
「キミはもう既に十分、学者としての素質を備えているよ。疑問を抱き、知りたいと願い、励んでいるのが何よりの証拠。苦しみながらも必死に学ぼうとしているキミなら、その苦しみから解き放たれた際には必ず、楽しく学んでいける事だろう」
「……そう、なんだ……」
その答えを聞けて、わたしの口から、は、と息が漏れる。駄目なままの状態がこれから先もずっと続いていく訳ではないと、他にも選択肢は在るのだと分かって、強張りが解けていく。
彼の解を聞いたわたしの視界が、じわりと滲む。そして、ぽろ、と一粒零れ落ちてしまえば……あとはもう感情のままに、涙を流すだけだった。
「……これまでよく、独りで頑張っていたね」
口を押さえて泣き出すわたしに、サイラス先生はそっと肩に手を置いて労いの言葉を掛けてくれる。
頑張って、頑張って、頑張り続けて、それでも苦しさが増すばかりで仕方無いわたしに、彼は教えてくれた。見えていなかったものを、考え方を、他にも在るんだよと見える所へと導いてくれた。
わたしだけでは絶対に辿り着けなかっただろう其処へこんなにもあっさりと、わたしの事を知ろうともしてくれて、聞いてくれて……本当に、不思議な、ひと。優しくてあたたかな、先生。
もし、この人の言う通りに違う道についても目を向けてみて、苦しみから解き放たれる日が訪れたのならば。楽しい気持ちを抱きながら、もっと知りたい、学びたいと思える事柄を見付けられる事が、出来たのならば……彼が見ている世界の姿が、どんなに鮮やかで美しいものなのか。その一端くらいは、知る事が出来るのだろうか……?
「……ふ、……っ、ごめんなさい、泣いて」
「構わない、我慢しなくて良いのだから。……少しは、キミの助けになれただろうか?」
「は、い……十分すぎる、くらいに。ありがとう、ございます」
目元を手の甲で拭い、顔を上げてそうお礼の言葉を伝えると、サイラス先生は安心したように目を細めて笑んだ。肩から離れていった手の温もりを名残惜しく思いながらも、すん、と鼻を啜って、自分の意思を伝えたいと口を開く。
「……先生、わたし……また、頑張ります。ちゃんと学びたいと思える事柄を、見付けられるように……すぐには、難しいと思いますが、嫌になってしまう事も、有るとは思いますが……それでも。やってみたい、です」
「うん。その気持ちが有れば、大丈夫だ。キミの可能性は無限大に広がっている。学びに満ちたこの世でキミが何を選び取り歩を進めるのか、どんな事柄に心を震わせるのか、楽しみにしているよ。なかなか見付けられなかったとしても、その時は共に他の道を探っていこう」
「良いんですか……?」
「勿論だ。それに何より、私は知りたい。キミが将来どんな大人になり、未来を紡いでいくのかを」
だから、と続けると、サイラス先生はわたしに手を差し出した。これは? と彼の掌と顔を見比べていると、その意味が何であるかの答えを返す。
「もしもまた苦しくて仕方無くなってしまったら、いつでも連れて行こう。望む所へ、未知の世界へ。そうして今日のように食事でもしながら、ゆっくりと話をしよう。私はいつでも、キミの助けになるよ」
差し伸べた手をいつでも取って良いのだと教えてくれる彼に、とくん、と胸が鳴る。
いつでも、なんて言われてしまったら、必要以上に頼ってしまいそうで、持ってはいけない欲まで生じてしまいそうだ。サイラス先生がもたらしてくれた教えは、導きは、とても優しくて心地良いから……その手を取らずにはいられなくなってしまう。
……でも、彼が自ら望んでくれるのならば。頼っても、甘えても、良いというのであれば……頑張って、頑張って、疲れてしまった時くらいには、許されるだろうか。
「──はい、サイラス先生」
そっと、差し伸べられている手に指先を乗せる。きゅ、と握ってくれた手はやはり大きくて、あたたかくて、落ち着けて。ほわりと胸が優しい気持ちで満たされていくのを感じる。
自身の表情が何であるかを自覚出来ていたのはいつが最後だったろうな、と思い返したりもしながら。彼が取り戻させてくれた笑みを浮かべて、わたしは応えた。