
キスの日だっていうから
珍しい事も有るものだ。その身に宿る感情が変わってしまう前は自ら楽しそうに触れ合いを求めていたのが、今では手が触れるだけでも照れや緊張を感じてあまり積極的ではなくなり、寂しさを覚えた己から触れに行く事が増えたというのに。──そうサイラスは、与えられたものを受け入れながら思った。
「せんせ」とクローチェが用いる呼称の一つ、意図的にか無意識にか甘えてくる時にも使われる事の多いそれで呼ばれたので顔を向けると、近付いていた掌がサイラスの両頬を包み込んで。そっと、唇が重ねられたのだ。
彼女から贈られたキスに、ぱち、と驚きで目を瞬かせた彼とは対照的に、クローチェは大きな瞳を隠すように瞼を閉じていて。数秒その状態でいた後、少し背伸びをしていた姿勢を戻すように顔も掌も離れていく。
相手の反応を確認するように開かれた瞳が姿を映したのを確認してから、サイラスも口を開いた。
「……突然だね」
「……や、やだった?」
「まさか。キミからのキスを嬉しく思わない訳が無いよ」
触れてくれた柔らかな唇の感触を思い返しながら答える。キミからの特別な愛情表現に拒絶を示す事など有り得ない、と。不安そうに尋ねた相手を安心させるように微笑んだ彼を見て、クローチェは「そ、っか」と小さく安堵の息を漏らした。
何故急に触れてくれたのか。その疑問は有るが、まずは喜びから生じた甘やかしたい気持ちを実行して、自分からも彼女に愛を伝えたい──と、サイラスも抱き寄せるべく腕を伸ばす。
が。考えに反して、クローチェはするりと抜け出し、届かない位置に距離を取ってしまった。
「あれ、」
「……今はいい」
「そう、なのかい? 残念だ」
キスをしたくなったが、されたい気分ではないらしい。宙に手を浮かせたままの彼を置いて、クローチェは進む道に向き直り歩き出して行く。微かに染めていた頬の赤みから照れは伺えつつも、やろうとした事を成せたからか、彼女の足取りは軽やかに見えた。
(……なんだか、弄ばれてしまったような気持ちになるな)
本質的には甘え好きなのだろうが、相手に気を遣い遠慮して我慢して、と甘えられず諦めようとする事も多々有るようだ、と知ったからこそ、存分に甘やかしてやりたいと思っている。クローチェからの想いと自身の恋情を理解したサイラスは、改めた接し方で彼女の事を大切にしていきたい、としてはいるが、今のように躱されてしまうと少々複雑な心境だった。
ふと近寄って来て、触れて、構ってほしいのかと思い構ってあげようとしたら、あっさりと離れていってしまい手の行き場が無くなった……なんて事は気紛れな猫と暮らしているとよく有るだろうが、今のサイラスの心境はそれとよく似ている。触れられた事で抱いた、自分も触れたい、という衝動はどうすれば良いのやら、と苦笑が浮かび、漸く手を下ろした。
(だが、今はいい、という事は……今でなければ良い、という意味でもあるのではないか?)
屁理屈だ、揚げ足取りだ、みたいな反論が来そうではあるが、そうした解釈を伝えても嫌そうな反応はしないだろうというのも、これまでの旅と二人で紡いだ時間から分かっていた。であれば、思った通りに行動しても怒られはしないだろう。
サイラスはクローチェの隣へと歩を進め、横並びの位置から問い掛ける。
「……今は要らないが、夜であれば欲してくれる、と受け取って良いのかな」
「へっ!? ……え、あ、え~っと……そ、それはどう、かなぁ?」
「餌を与えておいてそれは無いだろう? 此処が外でなければ、すぐにでもキミをシーツの海へと沈めてしまいたかったのだが」
「っ!」
意識させる言葉を敢えて選んで告げれば、クローチェは分かり易く、ぼふん、と顔を真っ赤に染めた。何言ってるの、と批判めいた眼差しが向けられるが、熱くて仕方が無い色と眉尻を下げた状態では全く怖さは感じられず、微笑ましく思うだけ。
クローチェの反応を見て、ふふ、と楽しそうに笑うサイラスに暫し視線を彷徨わせてから、返答する。
「……そ、そのまま、すやぁ……ってする、かも」
「それならそれで構わないさ。眠るキミを抱き締めて、温もりと共に私も眠ろう」
「……そういうつもり、で言ったんじゃないの」
「キミが傍に居てくれさえすれば、それだけで私は満たされる。触れ合いたいと望んでくれるのも嬉しいよ。しかし、夜だからと特定の行為に及ばなければならない決まりは無いのではないかな。……まぁ、そういった欲を全く抱かないのかというと、今の私は皆無であるとは言い難いかもしれないが」
「うぐ……」
穏やかな顔でそんな事を言われてしまうものだから、クローチェは堪らず、きゅっ、と口を結んだ。冗談ばかりのようで、本心からの言葉でもあるのだと既に教えられてしまったから、速くなってしまう鼓動もうるさく鳴り響いてしまう。
更に熱が高まり、煽られた恥ずかしさから距離を取ろうとした彼女に、「行かないでほしいな」とサイラスは手を取り、指を絡めて握った。びく、と反射的に肩が跳ねた様子にくすりと笑いつつ、耳元に口を寄せて囁く。
「──では、今夜は予約しておくよ」
甘さを乗せた声音で告げられ、ふる、とクローチェは身を震わせた。思わず目線を上げて彼を見れば、サイラスは愛おしそうに眼差しを向けていて、例え断ろうと思っていたとしても出来る筈がない。
──いや、断りたいとは思えない。それほどまでに、彼から向けられるこの慈しみには弱いのだ。
「………………ん」
どうせ逃げても追い付かれるのは分かっている。それに、甘えさせてくれるというのなら、甘えたいと期待してしまう自分も居るから。
逃げはせず、素っ気なく、けれど確かに了承の意を返して、捕まえられた手にクローチェからも微かに力を込めた。その応えにサイラスは目を細め、落ち着けずにいながらも隣を歩く彼女の手を、もう少しだけ引き寄せる。
「まずは、先程贈られたキスのお返しをしたいと思う。楽しみにしていてくれ」
「し、しなくていい~……」
悪戯にも似た少しのちょっかいが、そういう日らしいから、わたしからしてみても良いかな……と取ってみた思い付きの行動が、まさかこんなにも大きく返される事になろうとは。
にこり、と弧を描く彼の唇が何かと照れを煽る言葉を発するものだから、クローチェは居た堪れなくなって逃げ出したい気持ちになるものの。捕まっちゃったから、しょうがないから、と、サイラスの手を振り解こうとはしなかった。