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ひえひえから、ほかほか

 宿で部屋を取る、と言えば、金が掛かるから家に泊まれば良い、と返され。泊まるのは流石に悪いから、と遠慮しても、拠点として使ってくれて構わない、と今後も含めて歓迎されてしまう。
 なら、この地に家を買って入居し其処から訪ねれば良い、と思い付けば、それこそ金が掛かるし維持費も馬鹿にならない、長旅で家を空ける事が多いのだから持ち家は寧ろ邪魔になるのではないか、とバッサリ切られてしまった。
 以前は宿を数日取って彼の元を訪れるのが当たり前だったというのに、今回に限って何故か引き止めては案を悉く却下して自宅に泊まらせようとするサイラスに対し、かなり困惑させられながらも泊まるのは駄目だろうと抵抗を続けていたクローチェだったが……どうやっても勝てる気がしない、と折れる事にして。また明日訪ねるはずだった彼の家から出る事はせず、夜を過ごす事になった。
 ──しかし。

(……うん。これですやすや熟睡しろっていう方が無理でしょ~……)

 どうしても泊めたいというのなら仕方無い、ソファや床の空いている場所でも借りて毛布に包まり寝をしていよう、そう思っていたのだが。「それだとよく眠れないし風邪を引いてしまうだろう、私のベッドで休みたまえ」と言われてしまい、強行出来ず。
 加えて、家主から寝具を奪う訳にはいかない、一緒に寝れば問題無い、いやいや問題有りまくりだって、のやり取りをした後に、「私との共寝は嫌かい?」と少し寂しそうな顔で言うものだから。クローチェはまたも抵抗しきれず、サイラスと同じ寝具で眠る事になってしまったのだ。
 数度の旅と彼の元を訪ねる事を繰り返し、少しずつ物理的な距離は寄せられてきたものの、精神的な方はまだまだ片想いだった頃のようには戻せない。緊張と照れ、恥ずかしさ、申し訳無さ、劣等感……それらを包むように甘やかしてくれる事で煽られる、好きの感情と逃げ出したい衝動。自分自身にも彼にも翻弄されてばかりだ。

(サイラス先生は、ぐっすやぁ……してるけど)

 同じ毛布で眠るサイラスは、クローチェと背中をぴたりと合わせて穏やかな寝息を立てている。本当は向き合って眠る事を求められたが、それは絶対にしないから! と拒否した事で回避し、妥協案としてこの寝方になった。けれど、一人用の寝台に二人で眠るのは狭いし、密着するし、で安眠出来る訳も無く、クローチェは目が冴えて眠れずにいる。

(背中、くっついてる、し。すぐ後ろにサイラス先生、居るし。ぬくいし……うう、ずっと心臓バクバクしてる)

 少し触れるだけでも落ち着けないのだから離れたいと思うが、端の方に行き過ぎて落ちても困るし、衝撃から眠りを妨げてしまったらどうしようとも思い躊躇ってしまう。かといって、このままの状態では眠気も来ない。徹夜する事になったなら、申し訳無さそうな顔で謝る彼との対面は不可避だろう……どうにかしないと、とクローチェは悩む。

(う~ん……外の空気でも吸って気分転換すれば、眠れるかなぁ)

 此処で悶々としながら過ごすよりは良いかもしれない、少し動いてくれば状況も変わるかもしれないし。そうしてみよう、と決めるとクローチェは身体を起こし、熱が逃げないよう素早く抜け出てサイラスに毛布を掛け直して、靴を履き立ち上がった。
 そろり、そろりと歩を進め、そっと、そぉっと扉を開き、寝室から出ようとする。起きないかな、大丈夫かな、音が鳴ったりしませんように、と何度も後方の彼を確認しつつ扉を閉め、玄関へと向かう。

(あ、鍵掛けておかなきゃ)

 すぐに戻るつもりでいても施錠は大事だ。借りるね、とサイラスに一言を向けて鍵置きから手に取り、なるべく静かに玄関の扉を開けては閉め、カチャリ、と鍵を掛けた。落としてしまわぬようポケットの奥へ押し込んで、上からぽん、と軽く叩く。

(……さて、どうしよっかな)

 無事に外へ出られたは良いが、何処へ行くかなどは何も決めていない。あまり離れた区画へ行くのは良くないだろうし、学院や城が有る中心区画などには夜勤の兵士達が居るだろうから、こんな時間に何をしているのか、と怪しまれでもしたら大変だ。
 取り敢えずこの辺りを散歩してみようかな、とクローチェは歩き始め、気の向くままに進んで行く。

(真夜中のアトラスダム、歩くの初めてだな。ごはん食べてお酒飲んで、ってした帰りに先生と一緒に歩いたりはよくしたけど、皆が寝静まった頃~なんていうのは滅多に無いもんね)

 しん、と静寂が満ちている住宅区画。ひんやりとした空気が清澄さを促しているのか、見上げる空は建物が多いこの場からでも星々がよく見える。
 石畳の道が靴の音を小さく鳴らしはするものの、響き渡るようなものではない。硬質なヒール靴であればコツコツと良い音色を奏でただろう。例えば、サイラスの靴のようなものだったら。

(……今日は、なんで泊めたがったんだろ、先生)

 サイラスの事を思った流れで、やむを得ず放置するしかなかった謎を考え始める。彼はどうして、いつものように自分を宿へ送り出すのではなく、自宅に引き止めては泊まる事を求め、それでいて一緒のベッドで寝れば良いなどと言ってきたのか。

(きっかけとか有ったかなぁ……? いや、普通にこれまで通り遊びに来て、お土産渡して、色々話して、ごはん食べて……特別な事なんて無かった気がする)

 前回訪ねた時から少し日数は開いたが、物凄く久し振りな再会、という訳でもない。久々に会えたな、また会いに来られて嬉しいな、の気持ちをクローチェが抱いていても、それもいつも通りの大きさ。サイラスが出迎える時も嬉しそうにしてはくれたが、これまでと違う雰囲気なども特には感じられなかった。
 宿ではなく自宅で、別々ではなく一緒で、を強いた理由。一人にさせていたら良くないから、危ないから、と思ってしまう心配事でも有ったのだろうか?

(……要注意人物でも入り込んでたのかなぁ?)

 大きな都市には出入りする人々も多種多様で、殆どは善人なのだろうが、善人を装った悪人などが紛れ込む事も少なくはないだろう。自分と直接の関わりは無くとも、思い返せる中でもドタバタ騒動を見掛けた事が何件か有る。通報を受けたらしい兵士達が目標に向かって駆けて行くのとすれ違った事も有った。
 そうした警戒すべき人物が町中に居るらしい、との忠告を学院や図書館で受け、彼は強引に話を進めたのではないだろうか? とクローチェは思う。その人物が何をしでかすか分からないから、単身で宿泊する女性を狙うかもしれないから、一人で寝ていたら盗みを働きに来て遭遇するかもしれないから、といった理由で。それらの説明をしなかったのも、不安を与えてしまわぬように、の配慮であったから……とかで。

(そういうのじゃないと、あの過保護かってくらいの押しまくりが説明つかないっていうか、分かんないし……)

 大事にしてくれている、のは伝わっている。自分の想いを受け取って、前向きに考えて応えたい、としてくれているようであるのも。
 しかし、相手はあのサイラスだ。女性達から向けられる数々の好意も全く、さっぱり、何故か、気付かない超絶鈍感男。恋愛対象としての好きを貴方に向けている、と本心を泣きながら告げた事で認識してはくれたが、同じような好意を自分に向けてくれるようになるとは……どうしても思えない。
 思えないし、有ってはいけない、と思う。わたしは彼を好きになってしまった、でもサイラス先生の隣に居るべき女性は、わたしじゃない……相応しくない、釣り合わない、永遠の片想いでなければ、と。
 会いに来る事を許されているのも、別離は寂しいから嫌だ、と彼に望まれたからで。旅を終えた後も親交を続けていきたい彼の願いを叶えると共に、優しさに甘えさせてもらっているだけに過ぎないのだ。
 だからきっと、今日の事も恐らくは、大事な仲間の身を案じて、注意喚起を受けた教職者として、の計らいだったのだろう……クローチェはそう結論付け、はぁ、と溜息を吐く。
 動揺しているのは自分だけだ。少しは以前のような接し方に寄せなきゃ、と思ってはいるのだから、もっと精神を律せるようにならなければ。度々学びの地を訪れているのだから、精神統一の術を知る学者を訪ねて修行するべき……?
 そう思い始めた所で、「……ふふ」と笑いが出た。

(なんか、こうしてるとサイラス先生みたい)

 道端で考え事に耽り、謎の解を探り、結論を出す。それは彼がいつもしている事。町中の往来だろうが、自然豊かな野山や足場の良くない岩土の場だろうが、気に掛かる事が有るとつい始めてしまう、彼の悪癖の一つのようなもの。
 いつの間にか立ち止まって思考を巡らせていたらしい自分に気付き、結構な時間を一緒に居たから似ちゃったのかな、なんて思うと、くすぐったくなった。

「……ふぇっくしゅ!」

 ふる、と身体が震え、出てしまったくしゃみが場に響く。上着も羽織らず薄着のまま出歩いていたからだろう、少し身体が冷えてしまったようだ。

(さっむ……頭も身体も冷えたし、そろそろ戻ろうかな)

 クローチェは来た道を戻るべく振り返り、両腕を擦りながら歩いて行く。
 戻ってすぐベッドに入ったら冷気で彼を起こしてしまいそうだから、温かい飲み物でも飲んで熱を取り入れてからにしよう。お茶にしようか、ミルクでも良いな。さっきは全く動けずにいたけれど、今度はちょっとくらい、自分からくっついてみるのも……なんて思いつつ、少し軽くなった足取りで進む。
 出た時と同じように、なるべく物音を立てないようにしなきゃ。サイラス宅の前まで戻って来たクローチェはそう心掛けながら、しまっておいた鍵をポケットから取り出し、扉に近付くが──

「お、っわ!?」

 彼女が扉の前に立つ直前で、ガチャ、と鍵の開く音が鳴り。次いで勢いよく、扉が開け放たれた。

「っ、クローチェ君……!?」

 ぶつかりはしなかったものの、突然目の前で開いた扉に驚いて声を上げたクローチェに対し、掛けられた声。発した主を見れば、今も寝室で眠っているはずのサイラスが、慌てた様子で外へ飛び出そうとしていた。
 此処は彼の自宅なのだから、中から出て来るのはおかしな事ではない。だが今、開けようとしたら開いて現れたら、寝ておらず起きていたら、驚いてしまうに決まっている。
 突如現れた彼に、ぱちくり、と目を瞬かせているクローチェを視認すると、同様に扉のすぐ前に彼女が居た事に驚いていたサイラスは、眉を寄せて──そして。

「……っ!!」

 力強く、クローチェを抱き締めた。

「……へっ、え? ちょ、せんせ……?」

 クローチェの手から滑り落ちた鍵が地に落ち、チャリ、と金属音を鳴らす。
 どうして彼に、抱き締められているのだろうか。こんなにも強く、後頭部と腰に回された手で、掻き抱かれているのだろう……?

「──居なくなったかと、思った」

 困惑するクローチェの耳に、告げられる声。心配、不安、焦り、どれもを感じさせる声音だった。彼らしく淡々と語るものでも、自信が有り堂々としたものでもなく、力無く弱さを含むような、珍しいもの。

「ふと目が覚め、隣の熱を感じられなくなり、見てみれば……キミが、居なくて。少し時間が経てば戻るだろうと待っていたが、戻って来る気配が無い。起きて家の中を探してみても、見当たらなかった」
「あ、あ~、いや、その……」
「……また、黙って遠くへ消えてしまったのではないかと、思ったよ」
「…………」

 以前、クローチェが選んだ別離の行動。唐突に告げた別れ、二度と貴方には会わない、の意思を持って用いた言葉は、サイラスにとって明るい思い出には分類できかねた。関係を一歩進める事になった再会時のやり取りでも、クローチェはその場から逃げ出してしまい、彼の追跡を拒絶している。それから暫くは、つい距離を取ろうとする彼女に対して失踪の懸念がなかなか払拭しきれず、追い掛けては捕まえておきたくなる衝動から手を掴みに行ったものだ。
 そして今日、此処に居てくれ、と頼み込んだはずのクローチェが姿を消していた事に気付き、久方振りに生じてしまった焦燥感。夜は門の跳ね橋が閉じられているから敷地外には出られない、寝具の熱も冷めきってはいなかったからそう遠くへは行っていないだろう、を判断してローブを引っ掴み、飛び出そうとした。
 装いもそのまま、髪だって寝る前に解いたきり結んでいない。定位置から鍵が無くなっていた事にも気付けていなかった程に、『また居なくなったのかもしれない』の不安が、大きくて。

「戻って来て、良かった……」
「……、……ごめんね、せんせ」

 安堵の息を漏らすサイラスに、クローチェは素直に答える。彼が本気で心配しているのが伝わってきたから。バレないように出て、帰って、寝ようとしていただけの行動が、まさかこんなにも彼に心配を掛けてしまうとは……。

「散歩、してただけ。目が冴えて、眠れなくなっちゃったから」
「……こんなに身体を冷やす程に、かい?」
「え、あ~……思ってたより寒かった、かな。へへ」
「全く……風邪を引いてしまうだろう。早く中に……」
「……へっくしゅ!」

 戻ろう、と促そうとしたところで、再びくしゃみが出た。それを見たサイラスは羽織っていたローブを脱いでクローチェの肩に掛けてやり、手を引いて家の中へ連れ込もうとする。

「あっ、ま、待って! 鍵落とした!」

 慌てて踏み止まり制止を掛け、落としてしまった鍵を手早く拾い、彼に続いて中に入り扉を閉める。内側からもきちんと施錠して「これ借りてた、から」と見せて示すと、「あぁ……そうだったのか」と漸くサイラスも気付き、定位置に戻す様子を見届けた。

「じゃ、じゃあわたし、何か飲んでから寝るからさ、先生は戻って……」
「いや、すぐに寝よう」
「な、なんで? ほら、ひえひえだし、そんな状態で入ると冷たいし、」
「今すぐ」
「えぇ~……?」

 先程考えていた通りに身体を内側から温めてから、をしようとしても、サイラスは掴んでいる手もそのままに、駄目だと却下してしまう。言葉通りすぐに寝室へ向かおうとする彼に困惑しつつ、せめて手洗いうがいをしてから! を主張すると渋々ながらも一旦解放してもらえたので、クローチェは急いで洗面所に向かってそれらを済ませようとする。

(そんなに、心配になっちゃったのかなぁ……)

 ここまで過保護なのは珍しい。というか、初めてだ。廊下で待ちながらじっと見つめてくる視線も居心地が悪い。そんなに見てなくても消えないよ、とは思うが、心配させてしまったのは事実なので反論も出来ず、タオルで手と口を拭いて彼の元へ戻る。
 再度クローチェの手を掴むと「冷たい……」と小さくぼやいたのが聞こえてしまったが、そりゃあ水で洗ったんだから、というツッコミは心の内だけに留めておいた。
 二人で寝室に戻り、靴を脱いで寝台に上がって。先に毛布に潜ったサイラスは、入る途中だったクローチェの手を引き、自分の胸の中へと閉じ込めてしまう。

「っわ、ぷ」

 掛けてくれたローブを返す間も無く、それごと抱き締められる。皺になっちゃうよ、向き合って寝るのは無しって言った、を言いたくとも言える雰囲気ではないのも分かっていて、大人しく其処へ収まった。

「……せんせ」

 呼び掛けてみると、返事の代わりに腕に力が込められる。温めようとしているのか、それとも、離さないと言っているのか。暫し無言のままでいると、今度はサイラスが口を開く。

「……薄着で真夜中に出歩くなんて、何を考えているんだ」
「や、えっと……でも、今回はちゃんと戻って来るつもりだったよ? ちょ~っと冷えちゃったけども」
「今回は、ね。次はそうじゃないかもしれない」
「うぐ……ほ、ほんとにちょっとだけのつもりだった、し」
「短い時間だとしても、何か有ってからでは遅い。冷え切って体調を崩したら、一人で戻れなくなったら、……何者かに襲われてしまったら、どうするんだ」
「……お、襲う、かなぁ?」
「……キミの身体だけを狙っていた輩が居た事を、もう忘れてしまったのか?」
「あう……」

 そう言われてしまうと、本当に何も言い返せない。まだ各々の旅の目的を果たす前だった道中、ある町での出来事。攫われてしまったクローチェは、男達に乱暴される寸前だった。未遂に終わったものの、もし助けが間に合わなかったら命は無かったかもしれないし、命だけは助かっても、一生消えない傷を残されていただろう。
 恐怖心を綺麗サッパリ忘れてしまった訳ではないが、こう指摘されてしまうと、自分の行動は軽率すぎだったな……と反省するしかない。

「……ごめんなさい」
「分かっているなら良い。今後は気を付けてくれ」
「ふぁい……」

 素直に謝ると、ぽん、ぽん、とサイラスの手が優しく背を叩いた。許してはくれるらしい。だがまだ、クローチェを解放する気は無いようで、抱き締めたままだ。
 少しだけ緩んだ腕の中で、もぞ、と身動ぎ、サイラスの顔を覗き込む。

「……愛想、尽かしちゃった?」
「まさか。それは絶対に有り得ない。叱責も今ので済んだから、怒ってもいないよ」

 見つめ返す表情は、確かに怒ってはいないようなのが伺えた。機嫌が良さげの穏やかなものでもないが、先程のように焦らせてしまうような事は無さそうだ。
 すると。指摘された事と、自分の出した解が、ふと繋がったような感覚を得て、クローチェは問い掛ける。

「ね、今日わたしを泊めようとしたのって……危ないと思ったから、なの?」
「ん……?」
「えっと、そうなのかなって。いつもは、また明日ねって宿行くの送り出してくれるのに、今日はなんか、すごい……こだわってた、みたいだから。女が独りで過ごすのは危ないような事件とかが起きてたから、引き止めたり一緒に寝ようって言ったり、したのかと」
「……いや?」
「えっ」

 問いに対して、サイラスは何の事だろうか、といった様子で返答する。きっとそうだろう、と自分が納得出来る理由を見出したが、どうやら全くの見当違いだったらしい。
 じゃあ、どうして泊まらせて一緒のベッド? 本当になんで? の疑問符が再び頭に浮かびまくってしまうクローチェに、サイラスは真の答えを返す。

「キミを此処に留めたのは、一緒に寝れば良いと提案したのは……ただ、傍に居てほしかったからだ」
「……へっ?」
「ほんの数時間であっても、離れ難くなってしまった。それだけだよ」
「…………そ、う、なんだ」

 意外すぎて、且つシンプルな答えに、クローチェは更に困惑させられた。離れ難いって、なんだ。自分が彼に対して思う事はしょっちゅう有っても、彼が自分に対して、そう思うだなんて。
 だって、そんなの。そんなの、まるで。

(そういう意味で、サイラス先生も好きでいてくれてるみたい、じゃん……)

 落ち着きを取り戻したはずだった心臓がまた、うるさく鳴り始める。冗談を言っている訳ではなさそうな雰囲気であるのが、鼓動を活発に、煽りに煽って速度を上げてしまう。
 なんと返すべきか言葉に詰まっていると、サイラスはクローチェが投げ掛けた問いについてを考えており、思考を巡らせ話を続ける。

「先程の問いだが……キミが考えたような事件や騒動は何も起きていないな。これといったお触れも出ていないし、噂も耳にしていない。もし何か気を付けた方が良い事象が有ったとしたら、どうか気を付けて、と注意を促しながら宿まで送り届けるといった行動を取ったと思うよ。……いつもの私であったなら」
「……今日は、いつものじゃ、ないの」
「確かに、そうした理由が有ったとしても引き止めただろう。しかし、その場合はきちんと説明するし、納得してもらえたのを確認した上で、泊まってもらうかな。今日は……ただ、居てほしかった。強引に事を進めた自覚は有るよ」
「あ、有ったんだ……」
「どうしてかな……そう思った理由については、自分でもよく分からないんだ。久し振りにキミと会えて、思っていた以上に嬉しく感じていたのかもしれない。出迎えた時に言った、会える日を楽しみに日々を過ごしていた、というのも本当なのだが」

 案を悉く却下したのも、こうしてほしいと願ったのも、彼の中に自分との時間をもっと望む気持ちが在ったから。それはとても嬉しくて、照れくさくて、恥ずかしくて……くすぐったい。
 彼にとっての特別に成れたらしいのは間違い無いだろう。仲間として、友人として、言葉以上に大切に想ってくれているのが分かる。そう伝えられたら、期待してしまいそうだった。勘違いしてしまいそうだ。クローチェの抱く『好き』と、サイラスが前向きに考えてくれていた『好き』が、同じようなものになっていたのではないかと。

(……違うと思う。違うと思う、よ。でも……もっと一緒に居たいって気持ちは、すんごい、分かるから。……サイラス先生も、そう思ってくれてた、のかぁ……)

 自惚れてはいけない。けれど、本当にそう思ってくれているのであれば。離れ難いと、こうして抱き締めてくれるのならば。駄目だよ、と思おうとしているクローチェの中でも、少し、欲が出てしまう。

「……サイラス先生、は。わたしが居なくなるの、どっか行っちゃうの、嫌?」
「当たり前だろう。二度と会えなくなってしまうような出来事は、もう御免だよ。たとえ寝付けなかったからだとしても、何処かへ行ってしまうのではなく、私を起こしてほしい」
「それは、難しいな……起こすの悪い、し」
「甘えてくれ、遠慮無く。……どうか、私の腕の中で」

 言うと、サイラスはまた、ぎゅっとクローチェを抱き寄せる。そんな風に言われたら、されたら、甘えたい欲のまま素直に甘えたくなって、求めてしまう。
 捕まっているだけだった状態のクローチェからも、サイラスの背に手を回す。それが分かると、彼の表情に、ふ、と小さく笑みが浮かんだ。

(心臓バクバクしてるの、まだ治まってくれないけど。こんなの、落ち着く気がしないけど。それでも……あったかくて、このままでいいやって、思う)

 流れと空気と水とで、心も、腕も、手も、ひえひえだった身体は。彼の身と心の温もりが伝わって、もうすっかり熱を取り戻している。寧ろ熱くて困るくらい、ほかほかだ。
 でも、熱いからと離れて悲しませたりはしたくない。いや、離れて温もりが遠ざかってしまうのは自分も寂しいから、離れたくないと思う。温かくて、大きくて、包み込んでくれる彼の腕の中は本当に、離れ難い。
 こうしていたら、バクバクな心音も伝わってしまうかもしれないが。それでも構わないと、クローチェはサイラスの胸元に頬を擦り寄せる。

「……連れ込んだ責任取って、朝まで抱き枕しててね」
「勿論。朝までと言わず、今後もそうしたいが」
「それは……心臓保たないから、やだ。今日だけ」
「では、またしても良いと思ってもらえるよう、心地好さを提供するよ」
「……せんせ、さびしんぼで、あまえんぼ」
「キミに対しては、そうなのかもしれないな」

 あったかくて、うるさい。痛いけれど、このままでいたい。照れから取ってしまいがちの衝動も、今は彼に包まれている事で顔は出さず、言動の理由が分からないと悩まされる事も無くて。口では素直になれていなくとも、感情は心に従っていようとしていた。
 とん、とん、と寝かし付けるようなリズムで背を優しく叩かれ、鳴り響いていた心音も次第に眠気を誘われ小さくなってくる。うと、うと、と瞼が閉じ始めてきた頃、これだけは伝えておかなきゃ、とクローチェは口を開く。

「……サイラス、せんせ、おやすみ……」
「あぁ、おやすみ、クローチェ君」
「………………すき……」
「……、……私もだ」

 それが意味するものは、確かめられなかったけれど。伝わった、受け止めてくれた、のは分かって、安心を得た彼女は漸く眠りへと旅立った。

「また、明日」

 すう、すや、と穏やかな寝息が聞こえてきたのを確認してから、サイラスも同じように目を閉じ、腕の中の温もりを抱え直す。自分よりも若く、小さく、しかし身の内に抱く想いは大きい彼女がこれからも、共に在ってくれる事を願って。
 今度は確かな存在が腕の中に居る事を実感しつつ、彼も再びの眠りへと向かった。