02.別離する世界

意識の変化、価値観の逆転

世界 の 崩壊



彼がこの場から立ち去ってからどれくらい経ったのだろうか、埋めていた顔を上げて空を見上げれば月は大分高さを変えていた。
淡くぼんやりと輝いていた明かりは更に弱くなっている。
そろそろ戻って寝ないと、本当に明日起きるのが辛くなるだろう。
……でも、寝たくない。
明日を迎えたくない。
明日になったって、あたしが望む世界なんて来る訳が無いんだから。
ただ其処に居るだけで、気に掛かる事は何も無いように振る舞うのは、偽りの笑顔を浮かべるのは、もう……疲れたんだ。

「もう……嫌なんだ……」

今もあたしを蝕み続けているこの息苦しさから解放されるには一体どうしたら良いのだろう。
何処か、別の所に行ったら変わるだろうか……? そう思って重たかった腰を漸く上げて立ち上がるが、足に力が入らなくてふらふらする。
気を抜いたらすぐに崩れ落ちてしまいそうだった。

「……そうだ、ボール……」

ボールを蹴っていれば少しは気が紛れるかもしれない、足に力も入るかもしれないと思い付いて、一旦キャラバンの方へゆっくりと歩みを進める。
多分一つぐらいは出しっぱなしにしてるハズだ……予想通り、キャラバンの傍らにはボールが置かれていた。
それを屈んで手に取り、音で起こしてしまわないようにとその場から離れた場所まで移動してからボールを地面に放る。
静けさが支配していた空間に、あたしの息遣いとボールを蹴る音、転がる音が響く。

「はっ……はっ……」

ボールを蹴る、前に相手が居るのを想像しながら右へ左へと操って、また前へ。
目前に有る壁をゴールだと想定して思いっきり蹴った。
バァン! と大きな音を立ててボールは跳ね返り、あたしの横をバウンドして後方へと転がって行く。
いつもなら張り切ってもう一回と挑戦するのだけれど、今はただボールが転がって行く様を見送っただけだった。

「…………どう、して……」

楽に、ならない。
たのしく、ない。
走った事から来る息苦しさとは違う息苦しさが未だあたしを蝕み続けている。
あたしのやりたかったサッカーって、何だったっけ……こうして一人でボールを蹴る事、では、ない。
皆と同じフィールドに立って、走って、笑って……それから?

"勝つ為には仕方の無い事なの"

監督の言葉が頭をよぎる。
勝つ為に、勝つ事だけを目的として、強さだけを目指して。
強くなければ、走れない。
強くないあたしは、走れない。
強くないあたしは……要らない?
……そっか。

「あたしはもう、このチームには必要無いんだ……」

必要無いから、走らせない。
やりたいサッカーも出来無い、見てるだけしか出来無い。
出番を待っていたって、そのいつかが訪れる日は来るの……?
…………来ないに、決まってるじゃないか。

「じゃあっ、あたしはっ、どうしたら良いんだよぉッッ!!!」

いつまで経っても変わらないのに、このまま居続けろというの?
あたしも力になりたくて、平和にサッカーが出来る日を取り戻したくて旅に出るのを決意したというのに。
要らないんじゃ、居る意味、無いじゃないか。

「……っ誰か……誰でも良いから、教えてよ……」

あたしはどうしたら良いの、どうしたらこの苦しさから解放されるの。
痛い、胸が痛い。
心臓の辺りを掴んで治まってほしいと願っても痛みは増すばかり。
遂に立っていられなくなった足はガクンと膝を折り、身体は倒れ込むように地面に蹲った。
痛い、苦しい、嫌だ、このまま死んでしまうんじゃないかという恐怖が襲ってくる。
息が出来無いよ。
息が止まりそうだよ。
誰か、誰か、気付いて、

「だれか、たすけて……っ!」



「だったら、

      俺の所に来いよ」



声が、響く。
あたし以外の誰かの声が。
この声は記憶の中に有る誰とも該当しない。

「まさか此処まで弱ってるとは思ってなかったけど、ちょうど良いか」

足音が此方へと向かって来るのが分かる。
すぐ近くで立ち止まったので顔を上げるが、暗いせいでその人物の容姿は確認出来無い。
さっきあたしが使っていたであろうボールを手に持っていて、それを地面に置いたかと思うとその上に腰を下ろしてあたし見下ろす。
だれ? そう問い掛けようとしたけれど、口から出たのは声ではなく擦れ気味の息だった。

「ハジメマシテ、俺は不動明王っつーんだ。アンタが彼方侑紀だろ、雷門中二年の選手兼マネージャー」
「……ど、して……あたしの、事、」
「そりゃアンタをスカウトしに来る為に調べたからに決まってんじゃねーか」
「スカウ、ト……?」

不動と名乗った男はニヤリと笑い、蹲り地面についたままだったあたしの腕をぐっと引いた。
目の前まで引き寄せられ、漸く男の顔がどんななのかが分かる。
鋭い瞳がじっとあたしを捉えている。

「試合に出られない不満とか有るんじゃねーかって目付けててさァ、誘いに来てみればこの様だ。大方、とうとう不満爆発しちゃって一人で泣いてたんだろ?」
「……泣いて、は、いない」
「ま、どっちだって良いけど。なァ侑紀チャン、俺の所に来いよ。そうすりゃ満足がいくサッカー出来るぜ?」

いきなり何なんだとも思ったけれど、満足がいくサッカーが出来るという言葉に身体がぴくりと反応した。
コイツについて行けば、それが叶う……? あたしの様子に笑みを深くして不動は続ける。

「待ってたって出番が貰えないなら違う所で掴み取りゃ良い。俺だったら侑紀チャンをもっと強くしてやれる」
「もっと、強く……」
「そう、強く。雷門の奴等なんざアッサリ追い抜いちまうぐらいの強さだ」

欲しいだろ?
そう問う不動の言葉がとても魅力的に聞こえて、あたしはこくりと頷いてみせる。
強くなったら、またサッカーが出来るかもしれない。
強くなれたら、あたしのやりたかったサッカーが出来るかもしれない。
また、走れるかもしれない。
…………走りたい。
そう自分の意思が分かってしまえば、後は決めるだけ。

「俺と来いよ。俺達にはアンタが必要なんだ」

答えが出たなら告げるだけ。

「…………つれて、いって」

それでまた息が出来るなら、何処へだって。



今まで居た世界に、別れを告げよう


空を覆っていた雲が風に吹かれて流れていく。
弱々しい月光でもこの場を照らすには十分で、あたしと不動の輪郭を明確に現した。

「歓迎すんぜ、侑紀チャン」

腕を引かれた方とは逆の手があたしに差し伸べられる。
その手を取って二人で立ち上がると、さっきまで力の入らなかった足がしっかりと地面を踏みしめている。
息が、出来る。



……さよなら、今までの世界。